萩と狐 〜その2・狐


一本杉に隔てられた分かれ道を右に折れれば、目的の場所は目の前にある。
わかっているのに、そこから一歩を踏み出せない。
うろうろと考え込んだりなにやらブツブツ言ったりしながら、五徳猫はもう何時間も逡巡していた。



 『この間はごめん。これからは直接訪ねるといいよ』
そんな内容の手紙とともに妖怪アパートへの地図が鬼太郎から届けられたのは、もう2週間も前のことだ。
それから3日間は鬼太郎の真意がわからず苦悩のあまり寝込んでしまい、次の4日間は行くべきか行かぬべきかで迷い、やっと行こうと決心してから一週間、毎日家を出ては途中で戻り、少し行ってはまた戻りを繰り返し、ついにこの分かれ道までたどり着いたというわけだ。
この道を進めば、五徳猫は晴れて猫娘の個人的な客になる。
そして、やがて友達となり、いつかは特別な存在になるかもしれない。
しかしそれは同時に、ゲゲゲの鬼太郎という敵に回すと恐ろしい少年と、一人の少女を巡って相対することになるのだ。

五徳猫は鬼太郎をよく知らない。
おまけに尾鰭の付いた風評のせいで、鬼太郎は名前どおり鬼のような恐ろしい妖怪だという先入観がまだ拭い去れない。
久しぶりに抱いた本気の恋を成就させたいとは思うが、その前に鬼太郎に一騎打ちでも申し込まれたらどうしよう、今度こそ針攻めにされ下駄で蹴り上げられちゃんちゃんこで絞め殺されるかもしれない…などと思い描いては、恐怖に身震いして踵を返した。
数歩戻っては、また立ち止まる。

「こうしていてもしょうがねぇ。一度は死を覚悟したオレじゃねえか!」
自分を励ますように声に出して言うと、決心が鈍らぬうちに振り返り、目を瞑ったまま分かれ道を右に向かって走り出した。
ところが数歩も行かないうちに、どしーん、と何かに思い切りぶち当たり、薄い胸板をしたたかに打ってしまった。
「いったあ〜い、なんなのよ、もう!」
ぶつかった相手を確認する前に、耳に聞こえてきた高い声。
驚いて目を開けば、焦がれてやまぬ大きなつり目が恨めしそうに自分を見上げていた。
「ねっ、猫娘…さんっ!」
予想外の出来事にすっかり泡を食い、それきり言葉が続かなくなってしまった五徳猫を、猫娘は怖い顔で睨んだ。
「こんなに細い分かれ道を、全力で走ったら危ないでしょ! まったく、相変わらずおっちょこちょいなんだからっ」
自身も十分におっちょこちょいな少女が、まるで子供に言い聞かすように諌める。
「す、すまないっ、つい…」
「まあいいわよ。大事な荷物は無事だったし。また荷物を台無しにされたら、今度は容赦しないけどねー」
それほど本気で言っているわけではないらしく、赤くなった鼻の頭を摩りながら悪戯っぽく笑ってみせる。
気まずく頭を掻き掻き詫びる五徳猫に、今度は明るい声がかかった。
「こんなところまで、珍しいじゃない。アパートに遊びに来たの?」
「あっ、いや、そのう…そういうわけじゃ…」
しどろもどろになって口ごもる五徳猫の返事を待たずに、笑いかけて手を振り、
「今日はみんないるわよ。児啼きが将棋の相手を探してたし。あたしは出掛けるんだけど、ごゆっくり」
そう言うとアパートとは反対方向に歩き出した。
「あっ、ちょっ、ちょっと待って!」
慌てて猫娘の隣に駆け寄り、咳き込むように言った。
「あのー、よ…よかったら、オ、オレも付き合うよ」
「え? アパートに用事じゃなかったの?」
「いやあ、そのう…暇だったから遊びに来ただけで、別に用事というわけじゃ…」
はっきりとは言えずに目を泳がせる五徳猫をじっと見ていた猫娘は、そんな様子を気にする風もなく笑った。
「来たいのなら一緒に来ても構わないわよ。そんなに楽しいところじゃないけどね」
それきり、前を向いて歩き続ける。
「それじゃ、その荷物はオレが持つよ」
「ありがとう。じゃあ、お願いするね」
ずっしりと重い風呂敷包みを受け取ると、五徳猫はお供をする許しが出たのが嬉しくて、踊るような足取りで猫娘の後に続いた。

猫娘の足は、真っ直ぐゲゲゲの森の外へ向かっていた。
「あれ? 猫娘さん、人間界に用事なのかい?」
てっきり、鬼太郎の家に行くのだろうと、恋敵との対面を覚悟していただけに、拍子抜けしたようだ。
「あのさ、猫娘“さん”はやめてよ。猫娘でいいわよ」
と鬼太郎と同じようなことを言ってから、
「今日はね、あたしがこの森に来る前にお世話になっていたところに行くのよ」
前を向いたままで言う。
「へえ…」
ゲゲゲの森に住む前の猫娘…つまり、鬼太郎の知らない猫娘に縁のある場所に行くと思うと、なんとはなしに胸が弾んだ。
「そこは、オレみたいな見るからに化け猫ってやつが行っても差し支えないのか」
「まあ、大丈夫でしょ。人間はあまりいないところだから」
猫娘はすばやく五徳猫の全身に目を走らせ、あっさりと言った。

初めて猫娘とふたりきりになったことにすっかり舞い上がった五徳猫は、夢心地で人界への道を辿った。
交わされる言葉は少なかったが、それでも、やっと自分の胸の丈くらいの猫娘に歩調を合わせてゆっくりと歩くのは心地よかった。
ところが、その夢のような時を中断する出来事が不意に起こった。
ふたりの目の前を、一匹の萱ねずみが横切ったのだ。

「ニィヤア〜オッ!」
先に叫んだのはどちらだったか。
ほぼ同時に四つの猫目の瞳孔が広がり、爪を剥き出した手が2本、萱ねずみに伸びる。
しかし、小さな対象物に向かい同時に差し出された手は、獲物に届く直前にお互いにぶつかってしまった。
「いたっ!」
「いててーっ」
ふたりは同時に手を引っ込め、互いの爪で引っかかれた手の甲を押さえた。
その隙に、萱ねずみは道端の茂みへと消えてしまった。

「あーあ、逃げちゃった」
猫娘が残念そうに呟くと、五徳猫は大慌てでぺこぺこと謝り始めた。
「すまないっ。オレが欲出して飛びついたばっかりに、せっかくのご馳走が逃げちまった」
ここは男らしく猫娘に譲るべきだったと、己の考えなしの行動を悔いた。
ところが猫娘は笑い出し、
「しょうがないよ。ねずみを見たら飛びついちゃうのは、あたしたち猫族の本能じゃない」
そう言って五徳猫の頭を上げさせた。
「それに、あたしはお腹がすいてたわけじゃないの。それなのに思わず飛びついちゃったんだ」
最近では猫娘はねずみを食料とすることはなくなったが、その日その日を食いつないでいる五徳猫にとってねずみは今でも「ご馳走」なのだと、彼の言葉から悟った猫娘は、むしろ自分のほうが申し訳ないことをした、と謝った。
「いや、いいって。まあ、お互い様って事で、さ」
二人で目を合わせ、同時に笑い出す。
「猫ってさー、ちょろちょろ動く物を見ると、どんなに真剣なときでもついそっちに神経が行っちゃうんだよねー」
「そうそう! それで、自分がそれまで何やってたか忘れちまうんだよな」
「ねーっ。あたしも、何度それで失敗したことか…」
猫族同士ならではの共感に話も弾み、すっかり互いの気持ちもほぐれ、ふたりは再び歩き出した。

森を抜けてしばらくは、人間の作った道を行く。
やがてどんどん道が細くなり、いつしか塀の上やら建物の隙間やら、道ともいえぬところを進む。
一体どこに行くつもりかと訝しんでいた五徳猫が、はっとして訊いた。
「おい、これは“猫道”じゃねえか」
「うん。ちょっと近道するだけ。また人間の道に戻るよ」
『猫道』とは、猫だけが使う道で、それは人間界の隅のいたるところに張り巡らされており、どこかで猫町にも通じると言う。
他の猫や猫妖怪との交流がほとんどない五徳猫にとって、『猫道』を通るのは久しぶりのことだった。
猫娘も、猫族以外の仲間が一緒の時には決して通らない。

「この道を通っていれば、人間には気づかれにくいんだ。人間は、自分たちに関係のないものは見ようとしないから」
「なるほどねぇ。猫道なんてすっかり忘れてたよ。これからはちょくちょく利用させてもらうかな」
「そうよ。こんな便利な道、ないんだから。…ほら、もう着いた」
古風な造りの家の裏庭を通り、壁にあいた穴を抜けると、猫娘の指差す方向に薄汚れた小さな中華そば屋が見えた。
「なんだ? あの食い物屋に用事なのか?」
猫娘は首を横に振ると黙って歩き出し、五徳猫がその後を追う。
中華そば屋を通り過ぎ、隣の薄暗い木立の前で猫娘は足を止めた。
店の前のガラスケースに並んだ作り物の料理見本に見入っていた五徳猫は、急に止まった猫娘にまたぶつかってしまった。
慌てて猫娘の視線の先に目を移す。
高くそびえる桧の間に、古ぼけた石の鳥居が見えた。

「なんだか時化た神社だな…」
五徳猫がそっと呟いた。
五、六十坪ほどの境内に瓦葺の二間社の本殿があり、石の参道が続くなかなか立派な神社だが、ひっそりとして人気もなく、どことなく寂れていた。
あまり手入れされていないのか、参道の脇は雑草と落ち葉に覆われ、誰かが持ち込んだゴミも散乱している。
本殿の裏には深い雑木林が続き、一層暗い雰囲気を作っていた。
「まさか、ここがお前の住んでいたところか?」
幼くか弱い少女が一人で住まうにはあまりに侘しく荒涼とした環境に、五徳猫は戸惑いを隠せない。
「そうよ。なかなか閑寂な雰囲気でステキでしょ」
「閑寂なもんかよ。なんか陰気で荒んだ感じがするぜ」
鼻に皺を寄せて言う五徳猫の脇腹を、猫娘はひじで小突いた。
「ものは言い様でしょ。そんなこと言うと御稲荷様に怒られるわよー」
「えっ? い、稲荷?」
「うん。ここは御稲荷様が祀られているんだ」
「あー、穀物の神様ね! 飯のもとを守ってくれるんだ。立派な神様だよ」
「だったら、神社の悪口言わないのー。ごはん食べられなくなるわよ!」
また子供を叱るような声色になって、五徳猫を睨む。
「あたしが住んでた頃は、もうちょっと手入れされてたんだけどね。人間たちはどんどん不信心になっていくわ…」
そう言いながら、納屋の壁にかかっていた箒で簡単に辺りを掃き清めた。

一通り掃除すると、ぼうっと突っ立っている五徳猫の手から風呂敷包みを受け取り、
「これはね、お稲荷様と狐様へのお供えなの」
そう言って、本殿の脇にある一対の小さな狐の像の前に行ってしまった。
五徳猫は中には入らず、鳥居の横にある大きな石に腰掛けて待った。
神様なんてものは苦手で、極力近づきたくないのだ。
狐の像の前に蹲った猫娘は、なにやら長いこと祈っている。

五徳猫が待ちくたびれて大あくびをしたとき、猫娘がまた包みを抱えて戻り、五徳猫の隣に並んで座った。
「ずいぶん長いこと祈ってたじゃねえか。よっぽどの頼みごとがあるんだな」
「祈ってたんじゃないよ。狐様に、お供えを半分、五徳猫にあげてもいいかって訊いてたんだもん」
「なに? まっまさか、神様と話してたのか?」
「違うってば。いくらなんでも直接神様とはお話できないよ。神様の使いの狐様だよ」
「ああ…そうか。神様の使いってのはいいご身分だな。いつでも飯にありつけそうだ」
「その狐様が稲荷神に伺ってくれたのよ。そうしたら、いいよって。五徳猫に半分あげるってさ」
にっこり笑って包みを五徳猫に渡す。
「本当かよ! ありがてえっ!」
言いながら、慌てて包みを開け始めた。

淡い桃色の風呂敷の中には竹皮でなにかを包んであり、それを開くと現れたのは、5つ並んだ黄金色の稲荷ずし。
「こっ…これはっ…!」
掠れた声で叫んだきり、五徳猫は言葉もなく稲荷ずしを眺めたまま硬直している。
それを遠慮していると思った猫娘が、笑いながら促した。
「さっき、せっかくのねずみを逃がしちゃったから…。お腹すいてるんでしょ。これ食べて元気出して」
「こっこっこっ…これは、まさか、いっいっいっいなりっ…」
「うん。お稲荷さんだよ。豆腐小僧からおいしい油揚げもらったから久しぶりに作ったんだ。たくさん出来たから狐様にもお供えしに来たんだけど、五徳猫に食べてもらったほうがいいと思って…」
と猫娘が話すうちにも、五徳猫の大きな目から滝のような涙がザーザーと溢れ出てきた。
「ど、どうしたのよ…」
予想外の反応に猫娘はたじろいだが、五徳猫はじっと空を見つめたまま、涙も拭わずに言う。
「生きててよかった…。神様っているもんだなぁ。また稲荷ずしが食えるなんて…しかも猫娘の手作り…」
「大げさねえ。なにも泣くことないのに」
呆れ気味に言う猫娘には、かつて五徳猫が鬼太郎との対戦を前に死を覚悟したとき、最後にもう一度食べたいと心の中で神に語ったのが稲荷ずしだったとは思いも及ばないことだ。

五徳猫は稲荷ずしをひとつ掴むと、深く一礼してから「では、いただきます」と大仰に言ってゆっくりと口元へ運んだ。
一口頬張れば、甘辛いお揚げの汁と酢飯のほどよい酸味が口中に広がって、心もとろけるようなおいしさだ。
「うう…うまいっ!」
肩を震わせ、一口ずつ全身でかみ締めるように味わって食べる。
「そ…そこまで喜んでもらえて嬉しいわ…」
事情を知らない猫娘は、苦笑いを浮かべて言った。

どんなに大事に食べても、五つの稲荷ずしはあっというまになくなってしまった。
「はーっ、うまかったー。ごちそうさん」
「どういたしまして。そんなに感謝してもらって稲荷神も狐様も満足してるわよ、きっと」
「いや、ありがてえ。稲荷神っていいヤツだな。まさか稲荷ずしが食べられるなんてなぁ。もうこれで、思い残すこともないぜ」
味の染み付いた指を舐めながらしみじみと言う五徳猫を見て、猫娘は思わず笑い出した。
「まったく大げさなんだから。そんなにお稲荷さんが好きなら、また作ってあげるわよ」
「え!」
五徳猫の心に祝福の鐘が鳴り響く。
いつもの親切で言った猫娘の言葉は、五徳猫にとってはまるで、愛の告白のように響いたのだ。

(な、なんだか今のオレたちって、すごーくいい雰囲気じゃねえか?)
空腹が満たされた幸福感も手伝ってか、五徳猫はすっかり舞い上がり、このままうまく行くような気持ちさえしていた。
同じ猫妖怪ならではの共感を持ち、偶然にも猫娘の手作りの稲荷ずしを食べる幸運を得た。これはもう、神が味方してくれているとしか思えないのだ。
「たしかにね、ここのお稲荷様は優しいわよ。こんなあたしを神社に置いてくれたんだもん。五徳猫のこともきっと見ていてくださるよ」
「そうか…。お前さんも、幼いのにこんなところに一人でなぁ…。苦労したろうな」
「うーん、どうかなぁ。辛いとか苦労とか考えられなかったかな、ここにいた頃は。夢中で生きてたから」
ふと翳った猫娘の横顔を見つめながら、五徳猫はますます胸を高鳴らせた。
(こ、これはいよいよいい展開じゃねえか! 互いの過去を語って、心の傷を見せ合って、互いに傷を庇いあって、それで…)
妄想たくましく、五徳猫はふたりの未来予想図を描き始める。
しかし、そんな幸せな予想図は、猫娘の一言で、一瞬にしてもろくも崩れ去ることになる。
「でもね、鬼太郎が…あたしをここから救い出してくれたのよ」

「きっ…きた…ろ…ぉ」
ピシィッと、五徳猫の未来予想図に亀裂が走った。

「うん。それまで一人で突っ張って生きてきたあたしに、正義とか友情とか、孤独とか…とても大切なことをたくさん教えてくれたんだ」
「そ、そ…か、き、鬼太郎…ね」
ヒビの入った未来予想図をかろうじて保ちつつ、五徳猫は賭けに出た。
「あれだな、つまり鬼太郎は、幼馴染で仲間で、恩人でもあるって事だな…」
「確かに仲間だけどね。恩人…とは違うな。もっともっと深いんだ。かけがえのない、あたしの一生を捧げられる存在…なーんちゃって」
言ってからキャーと小さく叫んで真っ赤になった頬を覆い、一人で照れている。
「あ、これ、誰にも内緒だよ。こんなこと話すの、五徳猫だけなんだから。同じ猫妖怪だからかな、なんだかすごく話しやすくて」
悪戯っぽく笑って、内緒話をするように口元に人差し指を当てた。
「そ、そりゃ嬉しいね…」
五徳猫の痩せ我慢に、猫娘は邪念のない笑顔で応える。
「五徳猫ってさ、なんか、優しいけど手のかかるお兄ちゃんみたい」

ガラガラガラガラ…
ここに至って、五徳猫の未来予想図は完全な崩壊を見た。

     お兄ちゃん…

絶望的な敗北感が重くのしかかってきたが、猫娘の無邪気な笑顔に精一杯の空元気を返す。
「はっはっはー! そうだろう、困ったことがあったらいつでも相談しにきなさい。お兄ちゃんがいつでも力になろう!」
大げさに笑う横顔に、猫娘はふと見出した。五徳猫の、途方もない孤独を。
そして、急に声を低くして、静かに語りだす。
「でもさ、あの頃のあたしに、そっくりなんだよね、五徳猫…」
「え?」
「いいことなんてひとつもなくて、信じる物もなにもなくて、でもそれでもいいと思ってた。一人で生きていけるって信じてた、あの頃のあたしに」
「…………」
「孤独であることすら気づかないで、誰かと群れて生きるなんて真っ平で、仲間とか信頼とか、そんなものバカにしてて…」
五徳猫の胸がキリキリと痛む。
それはまったく自分のことを言い当てていた。
いや、正確には少し前までの自分だ。如意自在や山爺や、鬼太郎や猫娘に会ったあの日までの。

「オ…オレは…」
言いかけた五徳猫の声は、一瞬早く発せられた猫娘の言葉に消された。
「ねえ五徳猫、猫町に行ってみない?」
「え? 猫…町?」
「うん。もしよかったら、なんだけど…」
猫娘はわずかな顔色の違いも見逃さぬようにじっと五徳猫の顔を眺めながら続けた。
「実はね、あたしも一度、あそこに身を寄せたことがあったのよ。でも色々あってね、私はあの町を出ることを選んだんだけど」
五徳猫はなにも答えない。
なぜ急にこんなことを言い出すのかわからず、その眉間には深い皺が寄っていた。

「でもね、決して悪いところじゃないんだ。すごく温かくていいところだよ。五徳猫、行ったことないんでしょう」
「…オレは、猫同士つるんで、傷を舐めあって生きるのが嫌なんだ。土塊を食ってでも、人間界の底辺で行き続けてやるんだ。それが妖怪ってもんだろ」
「…やっぱりね。意地張っちゃって、少し前のあたしにそっくり」
猫娘は微かに苦笑を漏らした。
「もう人間たちの暮らしからは、五徳猫が大好きな囲炉裏も火鉢も、ほとんどなくなっちゃったでしょう。あったとしても、そこはとても明るくて賑やかで、居心地がいいはずないわ」
「だから人目を避けて独りでこっそり生きてきたんじゃねえか」
「わかってるわよ。それが悪いって言ってるんじゃないよ。ただ一度でいいから、猫町を訪ねてみたらいいんじゃないかなって思っただけ」
「余計なお世話だな」
「…そうだよね。ゴメン」
また出すぎたことをしてしまったと唇を噛む。しかし、もうひとつ言っておきたいことがあった。
猫町を嫌う五徳猫に、そのよさをわかってもらいたい。
手を差し伸べる猫仲間はたくさんいるということを知ってほしい。そのためにも。

「なにもあそこに住めって言うわけじゃないんだ。ただ…あそこには、今の人間たちが失ってしまった大切な物がたくさんあるんだよ。ダメなら出てくればいいんだから。あたしみたいに」
訪ねてみたら、五徳猫が求めてる物がなにか、自分の居場所はどこかを見つけるきっかけになるかもしれない、と猫娘は言う。
猫娘が自分のことを真剣に考えて助言してくれていることはよくわかる。
でも、ここから出て行けといわれているようで、五徳猫には納得がいかなかった。
「それなら、ここでもいいんじゃねえか? ゲゲゲの森の仲間たちだってすごく優しいし、オレは居心地がいいんだ。それとも、オレがいちゃ困るって言うのかよ」
捨て鉢になって凄む五徳猫をなだめるように、猫娘はゆっくりと話す。
「そんなこと、あるわけないでしょう。五徳猫がゲゲゲの森に住んでくれたら嬉しいよ。でもね…五徳猫とあたしは、決定的に違うことがあるんだよ」
「な…なんだよ、そりゃ…」
「五徳猫は、他の妖怪や人間を傷つけることが出来ない、でしょ」
「え…?」
「あたしはね、出来るんだよ。他人同士の争いごとに首を突っ込んで、自分には何の関わりも怨みもない妖怪や人間を、この爪で引き裂くことが出来るんだ」
しなやかに光る十の爪を眺めながら言う。
「あたしだけじゃない。あたしたちの仲間になれば戦うんだよ。同じ妖怪や、か弱い人間を相手に…」
その目には、修羅の道を行くことを決めた、並々ならぬ覚悟が光っていた。

「そ…それは…」
たしかに、五徳猫には無理なことだった。
猫娘のためにならどんなヤツとでも戦うが、他人の争いに手を出してまで人を傷つけるなんてとてもできない。果てしれぬ戦いの日々なんて真っ平御免だ。
だから、死を覚悟して挑んだ鬼太郎との一騎打ちにも、最後まで積極的には攻められなかったのだ。
炎が相手に届く距離まで後一歩、どうしても近づけなかった。

猫娘はあの一戦を見て、五徳猫の優しさを感じ取り、自分とは居場所も、幸せの意味も違うのだろうと思ったのだ。
そんな猫娘の考えが、五徳猫にもようやくわかった。
ゲゲゲの森は、自分のいるべき場所ではないのかもしれない。

自分の好きになった人は、自分のことを同じようには思ってくれていなかった。
それでも、真剣にの自分のことを思いやってくれて、自分ですら気づかなかった孤独に気づき、的確な助言までしてくれた。
これ以上、何を望むことがあるだろうか。

「…わかった。行ってみるよ。猫町に。オレの…本当の居場所を知るためにな」
「うん。きっと見つかるよ」
向けられた笑顔があまりにまっすぐで愛おしくて、五徳猫は思わず目を細め…、がばりとその小さな肩を抱きしめた。
「きゃあっ! ちょっと、なによっ」
「うっせぇ! これで仕舞いにするよ。戦線離脱だ」
「な、なんのことよ…」
ぎゅっと痛むほど抱きしめると、不意に手を放し、そのまま立ち上がってくるりと背を向けた。
もう二度と、振り返らない。そう決心していた。

ふたりきりでゆっくり話した。手作りの稲荷ずしも食べた。
それはふたりを一緒の未来へ導くものだと思っていたが、そうではなかったのだ。
でもそれは確かに、五徳猫を新しい道へといざなうものだった。

「猫町は、どっちだ?」
背を向けたまま尋ねる。
「さっき出てきた家の裏庭まで戻って、北側の藪に通じる獣道を進むの。そうすれば、猫族であれば自然に猫町に足が向くのよ」
「わかった」
来た道を数歩行き、立ち止まる。そして、やはり振り向きもせずに呟いた。
「ありがとうな。…幸せに」
「うん。五徳猫もね」
無邪気な猫娘の声が、今の五徳猫には辛く響いた。
再び歩き出し、もう足を止めることはなかった。

「居場所を見つけたら、またゲゲゲの森に遊びに来てね。お稲荷さん、たくさん作って待ってるから」
背中に投げかけられた猫娘の言葉に、振り返らずかるく手を上げて合図をすると、先ほど出てきた古屋の壁の穴に消えていった。




それから、数年の後。
鬼太郎のポストに、一通の手紙が届けられる。
切手代わりの猫の手形。猫町からのものだった。
差出人を見た鬼太郎は、それをポケットに捻じ込み、目玉親父に「ちょっと、散歩に出てきます」と言い訳をして家を出た。
一人になって池の端に座り込み、手紙を取り出す。
差出人は、五徳猫。住所は猫文字らしく、解読不能だ。
封を開ければ、中に入っていたのは一枚の手紙と写真。
手紙は短いものだった。

  『何も言わずに戦線離脱してすまなかった。
   聞いてくれ。オレにもちゃんと、幸せは用意されてたんだ。
   見てくれ。オレが見つけた最高の伴侶を。
   稲荷ずしが得意なんだぜ。
   そういうわけだから、鬼太郎の不戦勝だ。
   猫娘には、お前から話しておいてくれ。
   手紙を書こうとも思ったんだが、涙が出てきて無理だった。
   お前たちも早く幸せになれよ。
   まあ、オレの幸せには敵わないだろうけどな』


読み終わり、ふふ、と微笑した。
「相変わらず一方的なやつだなぁ。これじゃあ、返事も出せやしない」
そして、同封された写真を見る。
淡いグレーの綺麗なメスの猫又と、誇らしげに並んで映る五徳猫がいた。
いくらか立派な身なりをして、二人の後ろには真新しい小さな家が映っている。
これが、彼の手に入れた居場所なのだろう。
白い壁に緑の屋根のかわいらしい概観は、彼の細君の好みだろうか。
はにかむ様に少し首を傾げて微笑む猫又の碧の眸は、猫娘に良く似て澄み切っていた。

「先を越されたな」
もう一度微笑すると、おめでとう、と言いながら手紙と写真を大切に封筒に戻した。
それを再びポケットに入れると、立ち上がって大きく伸びをし、樹上の家に向かって歩き出す。
その時、一瞬ニヤリと口を歪めた鬼太郎が呟いた小さな声は、風にかき消され誰にも届くことはなかった。

「虫退治、一匹終了…」


おしまい
2006.10.18



「萩と狐・その1〜萩」に続く、五徳猫先生勝手に登場作品です。
てか、ここまでくると完全にオリジナル・キャラです^^; どこの五徳猫だよって;; またまた平謝りですm(_ _)m
本当は、五徳猫が黙って後ろ向いて立ち去ったところで終わればカッコイイんですが、どうしても彼をハッピーにしたかった私の悪あがきで最後に「数年後オチ」を付けてしまいました;;
そしてそして、最後の最後が、ブラックー! こんなことするつもりじゃなかったんですがね?
自分ちの鬼太郎がこんな恐ろしいヤツだったなんて、私自身が一番驚いていたりして。
それから、「猫道」(あるいは猫の道)とは、水木先生の作品やお話(インタビュー等)の中に時々登場します。その表現や概念がとても好きなので、拝借しました。私の創作ではありません。
また、猫娘の過去について触れている部分がありますが、これは私の妄想の片鱗であって、オリジナルの設定です。いつかその話も書きたいと思っているので、その伏線的なものです。