萩と狐 〜その1・萩 梯子の下で、誰かが身なりを整えている気配がする。 やがてコホンと小さな咳払いが聞こえ、気配の主がゆっくりと梯子を登ってくる。 木の葉の布団に寝っ転がったまま、鬼太郎は梯子の軋む音を聞いていた。 入り口に掛けられた筵の前で、もう一度小さな咳払いが聞こえ、少し上ずった声がかかる。 「こ、こんにちは。どなたかいらっしゃいますか」 「どうぞ」 相手はわかっている。 鬼太郎は起き上がりもせずに、相手の顔が筵から覗くのを見ていた。 「おじゃましまーす…。アレ? お一人ですか?」 家の中をすばやく見回すと、鬼太郎を見つけて緊張気味に言う。 「ああ。残念ながらね。誰に用だったの?」 わかりきった答えを、わざと聞く。 「あ、いや、あのう…、また出直してきますー…」 愛想笑いを浮かべながら顔を引っ込めかけた相手を、鬼太郎は身を起こし呼び止めた。 「遠慮することないさ。せっかくだから、お茶でも飲んで行きなよ、五徳猫」 * * * * * 「はい。ぬるめに淹れといたから」 「あっ、ありがとうございます…」 差し出されたお茶を見つめたまま、五徳猫は背筋をピンと伸ばし微動だにしない。 「もっと楽にしていいよ。そんなに緊張しないでさ」 なにも取って食おうというんじゃないのに、ひげまでピンと張ってるのがおかしくて、鬼太郎は思わず苦笑を漏らした。 「はっ、はあ…」 さすがに猫背を伸ばすのは苦しかったのか、素直に膝を崩し、背を丸める。 痩せぎすの、一見風采の上がらない猫妖怪だが、その目には力強い光を宿している。 若さに似合わぬ眉間の皺は、彼が乗り越えてきた苦難を物語っているし、まだ自分でも気づかぬエネルギーをその痩身に秘めた、なかなか魅力的な男だと鬼太郎は思う。 だからこそ、警戒しているのだ。 「ちょうど今朝、猫娘からおはぎをもらったんだ。手作りらしいよ」 お茶請けのおはぎを用意しながらわざと猫娘の名前を出すと、五徳猫は呆れるほど単純に顔を輝かせた。 「猫娘さんの…手作り…」 お皿に盛られたそれを押し頂くようにして受け取ると、まるで芸術品でも鑑賞するようにしげしげと眺め回し、気が済むまで眺めると、手をつけずに机に置いた。 もったいなくて食べられないのだ。 沈黙が気まずいのか、そわそわと落ち着かない。 鬼太郎は向かいに座っておはぎを頬張りながら、そんな五徳猫の様子を黙って見ている。 もう何度もこの家に足を運んでいるというのに、相変わらず鬼太郎の前では緊張を解けない。 この五徳猫に対してだけ、鬼太郎の態度が必要以上につっけんどんだからだ。 しかし、鬼太郎もただ意地悪でやっているわけではない。 歓迎できないのには訳があるのだ。 「えっと…、きっ…今日はいらっしゃらないんですか…?」 重い沈黙から逃れるように、五徳猫が口を開いた。 汗までかいて、相当の覚悟で聞いたのだ。 しかし、鬼太郎はその意図を知りながら、わざとはぐらかした。 「ああ、父さん? 今日はアパートに遊びに行ってるよ」 「いやっ、そのう…そうじゃなくて、あの…」 しどろもどろになって、張り付く喉を潤すようにお茶をすする。 一向に後が続かず困り果てた様子を見て、さすがに気の毒に思い、鬼太郎の方から切り出した。 「…猫娘のこと?」 「そっ、そうです!」 途端に目が輝く。 鬼太郎はあからさまな態度を少し不愉快に思ったが、今度は素直に答えた。 「猫娘なら、今朝おはぎを届けに来てそのまま父さんを連れてアパートに帰ったよ。アパートのみんなが父さんに相談があるらしくてね」 「アパート…ですか」 今度は目に見えて落胆した。 五徳猫もアパートの存在は知っているが、場所までは知らないのだ。 そうでなければ、猫娘に会うためにわざわざここへは来ないだろう。 しかし残念ながら、彼はここでしか猫娘に会ったことはない。初めて出会った日から。 しかもここへ来るたびに、居合わせた猫娘や砂かけ婆たちよりも先に帰るから、猫娘たちが帰るところも見ていない。 鬼太郎が必ず、彼を先に帰すからだ。 家主(の息子)がにっこり笑って帰りを促せば、彼の性格上、大人しく帰るしかなかった。 他の仲間に場所を聞きだそうにも、みんな簡単には口を割らない。 アパートの場所は、よほど親しい仲間じゃなければ教えることはないからだ。 しかも、彼が猫娘に関心を寄せていることはみんな気づいてるから、余計に口が堅い。 五徳猫はがっくりと肩を落としたまま、しばらく動かない。 虫の音ひとつ聞こえない狭い部屋の中、空気が音でもしそうなほどに張り詰めている。 「鬼太郎さんは…」 その重さを縫って、這うような五徳猫の声がふいに聞こえた。 「さん付けはやめてよ。鬼太郎でいいよ。ぼくのほうがずいぶん年下なんだし」 そう言う鬼太郎のほうがよほど余裕がある。 「き…鬼太郎…は、猫娘さ…いや猫娘…とは仲がいいんでしょう?」 仲がいい、というのはずいぶん曖昧な表現だが、とりあえず仲が悪いわけではない。 「ええ、まあ」 鬼太郎のほうでも曖昧に答えると、五徳猫は突然がばりと身を乗り出してきた。 「それじゃ、あの娘の好物とか趣味とか苦手なこととか、…おっ、男の好みなんてのも知ってるのか?」 それを聞いた瞬間、鬼太郎の表情が凍りつく。 「そんなこと聞いて、どうすんのさ」 「ど…どうするって…、そりゃ色々と…その…、口説くときに…」 最後のほうは、口ごもってほとんど不明瞭だったが、聞き逃す鬼太郎ではない。 こうなることを、警戒していたのだ。 鬼太郎が彼に対してきつい態度を崩さなかったのは、自分に、引いては猫娘に近寄らせないためだった。 しかし結局、五徳猫には通じなかったようだ。 いや、恐怖の対象である鬼太郎に近づくことも厭わないほど、猫娘を想う気持ちが勝ったのだ。 それに、こんなことを聞いてくる以上は、鬼太郎と猫娘のことは仲のいいお友達としか思ってないのだろう。 …まあ、実際、事実上はその程度なのだが。 初めて会ったときから、鬼太郎は嫌な予感がしていた。 あの日、ぬらりひょんの刺客として、如意自在や山爺と共に彼がここを訪れた時から。 ぬらりひょんを追い払った後、彼ら三人(“三匹”とも言う)は鬼太郎の家に招かれた。 結局はねずみ男に騙され、ぬらりひょんに従っていただけだということがわかり、仲直りをするためと、一方的に怪我をした彼らに手当てをするためだった。 その時、傷ついた彼らを懸命に手当てする猫娘を、五徳猫はじっと見つめていた。 猫娘は根が世話焼きだし、とくに五徳猫の場合、傷のほとんどは、鍋の材料を台無しにされたことに怒った猫娘がつけた引っかき傷だったから、自責の念もあって特に丁寧に手当てしたのだが、五徳猫にはただ献身的な姿に映ったのだ。 その後、みんなで鍋を囲んだときも、猫娘はやはり甲斐甲斐しく鍋を取り仕切っていた。 それもいつものことなのだが、ずっと独りで生きてきた孤高の妖怪にとって、猫娘のお節介は、自分への好意と勘違いするには十分だった。 とはいえ鬼太郎としては、人間界の端っこで独り生き抜いてきた彼の苦難には同情しても、こればかりは応援するわけにはいかなかった。 だいたい、本気ならまだいいが、もしただの興味本位や、万一ロリコン…なんてヤツであれば、即刻消えてもらうつもりだ。 「それ、本気で言ってるのかい」 少し間をおいて答えが返ると、食って掛かるような勢いで迫った。 「本気だ。滑稽かもしれないけど、オレは運命を感じたんだよ。あの娘もオレを憎からず思ってくれてるみたいだし。なあ、なにかそんな話、聞いてないか?」 もう緊張の糸は解けたのか、開き直ったのか、ずいぶん饒舌になった。 それに反比例するように、鬼太郎はますます冷静に口を開く。 「猫娘はまだ子供だろう。きみみたいな立派な妖怪が本気になるような相手じゃないよ」 「いいや。まだナリは子供だが、しっかりした娘だ。妖怪にゃ見かけや年は関係ない。そうだろう。二百や三百の歳の差くらい、なんてことないさ」 「そりゃそうだけど、猫娘にはそういう話はまだ早いよ」 「今はな。オレだって、今すぐどうこうしようってんじゃない。今から、悪い虫がつかないようにオレが唾付けとくってだけのことだ」 これには鬼太郎もむっとした。唾を付けるとは失礼な話だ。 だいたい、悪い虫を追っ払う役ならば、責任を持ってしているつもりだった。 だから今、猫娘にちょっかいを出しかけてる「悪い虫」退治に苦労してるのに、と鬼太郎は思った。 「そんな気の長いこと考えてないで、もっと妙齢の化け猫でも探せばいいじゃないか。猫妖怪なら他にもたくさんいるだろう」 「そりゃ年頃の化け猫とだって何度か付き合ったよ。でも、みんな一癖も二癖もあるやつらでよう、そりゃもうひどい目に会ってきたんだよ…」 余程苦労しているのか、思い出して身震いをする。 確かに化け猫をはじめ猫妖怪には自分勝手で狡賢い者が多い。 猫娘や五徳猫のような暢気なお人好しのほうが珍しいのかもしれない。 「もう女なんて懲り懲りだと思ってたんだけど、あの娘はちょっと違うんだよな。あの娘には、このまま真っ直ぐ育って欲しい。だから、オレが傍で守ってやるんだ!」 「だからって、なにも今から…」 「なに、あと百年も経てばオレと釣り合う娘になるさ。それくらい、独りで生きてきた数百年に比べればあっという間だ」 まいったなあ…っと鬼太郎は頭を掻く。 まだ幼さばかりが目に付く猫娘の女性としての魅力に気づく男が、こんなに早く現れるとは思っていなかった。 しかも、今の子供の猫娘に興味があるのではなく百年先まで待つというのだから、かなり本気なのだろう。 いっそ悪い虫なら退治できるのに、本気を見せられては却ってやりにくい。 「なあっ、知ってるなら教えてくれ。あの娘には惚れた男はいるのか。友達なら、そういうこともなんとなくわかるだろう?」 「いれば…諦めるとでも?」 「…そいつが、オレよりあの娘にふさわしいならな…」 (ふうん…。ちゃんと猫娘のこと考えてるんだ…) 一方的に気持ちを押し付けるのでなく、相手のことを慮った五徳猫の発言に、鬼太郎は安堵した。 決して、興味本位や半端な気持ちで言っているわけではなさそうだ。 「でも、もしろくでもないヤロウだったら、このオレが叩きのめす!」 相手も知らずに、思い切ったことを言う。 誠意はあるが、大風呂敷を広げるタイプなのだろう。 五徳猫の誠意に好感を持った鬼太郎は、自らも誠実に向かおうと、態度を改めた。 「猫娘に好きな男がいるかっていうのは、正直、ぼくにもわからない。猫娘はみんなのことが大好きだから、その中の誰をどれくらい好きかまではわからないんだ」 「なんだ。知らねえのかよ…」 「でも、きみと同じように、今すぐじゃなくても遠い将来、猫娘にとって特別な存在になりたいと思っている男なら知ってるよ」 「なに本当か! 誰なんだよ、そいつは? あのねず公か? それとも布っきれ野郎か? まさか、腹掛けのじいさんじゃないだろうな」 鬼太郎はすぐには答えず、ニヤニヤしながら顔を覗き込んでいる。 鼻息も荒く答えを待つ五徳猫をわざと焦らすように目を泳がせてから、やおら人差し指を差し出し、それをそのままゆっくりと自分の鼻先に向けた。 「なっ…!」 五徳猫は目を剥いたまま、言葉もなく固まった。 流れる冷や汗をぽたぽたと落としながらしばらく黙ったまま、頭の中で必死にその意味を考えている。 ややあって、なんとか答えに行き着いたのだろう、引きつるような笑みを浮かべると、 「そ…、そうか。あれだな。淡い初恋ってヤツだな。そう言えばオレも、ガキの頃は近所のかわいい三毛猫が好きだったっけなぁ…」 と言ってかかかかと乾いた笑い声を上げた。 「いや、今思えばかわいいもんだよ。ガキの頃ってのは恋なんて意味もわからねえで、手近な女に気が向いちゃうんだよな」 ガキガキと、完全に鬼太郎のことを子供扱いする。どうせ数年も持たぬ幼い恋心だろうと結論付けたようだ。 たしかに五徳猫から見たら、妖力はともかく男としては、鬼太郎はまだほんのひよっこだ。 ぼんやりとして女性には興味がなさそうだし、目玉の親父にべったりだし、まだ母親が一番恋しい年頃にも思える。 妖怪としての力は自分を遥かに超えているとしても、色恋沙汰となるとその対象外だったのだろう。 自分は猫娘のような子供を相手にのぼせ上っていると言うのに、恋に盲目となった男とは、真に身勝手なものではある。 「悪いけど、初恋はもう体験済みだよ。死に別れたけどね」 寝子さんのことは、本当は誰にも話したくないのだが、こういう事態となれば少しくらい自分の手の内を見せてもいいと思った。 「し…死に…。そうか…。悪いこと言ったな…」 ばつが悪そうにひげを垂らして鼻の頭を掻く。本当にお人好しなんだな、と鬼太郎は微かに笑った。 「気にすることないよ。昔のことだし、今はもう、笑って話せるくらいにはなったから」 「鬼太郎…も、結構苦労してるんだな」 「苦労って程でもないよ。その傷を埋めて余りある存在にも出会えたし」 「そっ、そっ、それって…まさか…かっ、かっ…」 再び冷や汗がぽたぽたと流れ落ちる。 台拭きでちゃぶ台に落ちた汗を拭きながら、鬼太郎はにっこり笑って言った。 「ああ。きみと同じだよ。ふふっ…きみに叩きのめされなきゃいいけど」 その笑顔の裏にある闘志を感じ取り、五徳猫は生唾をごくりと飲み込むと、歯の根も合わないほど震えだす。 「たっ、たっ、たたきっ…のめすなんてっ。そっそんな…」 結局、今に至るまで鬼太郎の真の実力を目の当たりにしてはいないが、それでも自分とは比べ物にならぬ力を持った妖怪であることは、五徳猫にもわかる。 そんな鬼太郎を相手に争うなんて、夢にも思っていなかった。 「妖怪に見かけや年齢は関係ないって言ったのは自分だろう。ぼくもきみも一人の男として、堂々と真っ向勝負しようじゃないか」 「まっ、まっこーしょーぶっ…。ごっ、ご冗談を…」 「ぼくは本気だよ。実を言うと、邪魔な芽は未然に踏み潰すつもりだったんだけどさ。五徳猫、きみが存外真摯で誠実だったから、ぼくも誠意を持って向き合おうと思ったんだ」 その誠意を示すために、精一杯爽やかな笑みを向ける。 「ふっ、ふみっ…つっつぶすすす…」 「だから、踏み潰さないってば!」 鬼太郎は好敵手の誠実さに敬意を表し友好的に接しているつもりなのだが、そうすればするほど、逆に五徳猫を怯えさせた。 握手でもすればもう少し落ち着くだろうか、と思い、右手を差し出す。 「お互い頑張ろう、五徳猫」 震える手を何度か滑らせながら、やっとのことで握り返す。 「100年後、どっちが彼女の隣にいるか、楽しみだな」 しっかりと、握った手。にっこりと、とびきりの笑顔。 鬼太郎の精一杯の好意は、しかし逆にとどめを刺すことになる。 途端に五徳猫は、白目を剥いてそのまま後ろに倒れてしまった。 日も傾いた頃、気が付いた五徳猫は鬼太郎が夕飯を勧めるのを頑なに拒んで、抜け殻のようにふらふらと筵を上げて出て行こうとした。 「もう帰るのかい」 「ああ…。お邪魔しました…」 猫背をさらに丸めて筵をくぐる背には、心なしか哀愁が漂っている。 その背を見送りながら、鬼太郎はふと思い出し、奥の棚から包みを取り出してきた。 「五徳猫、待ってくれ」 呼び止めた声に驚いたのか、五徳猫はびくりとして足を踏み外し、下まで落っこちてしまった。 「おい、大丈夫か」 梯子を降りると、ふらりと立ち上がった五徳猫にお土産の包みを渡した。 「これ、さっきのおはぎだよ。嫌いじゃなければ」 「いやっ、嫌いじゃないです! いただきます」 包みを大事そうに受け取ると深々とお辞儀をして、よろよろと去っていく。 「五徳猫…、諦めてしまうつもりかい」 遠ざかる丸い背中に問いかける。 これで猫娘を諦めるというなら、鬼太郎には好都合ではあるが。 五徳猫は立ち止まり、しばらくは身動きもしなかったが、やがてゆっくり振り向いた。 「諦められる…わけがないだろ」 そして、いくらか開き直ったような笑みを浮かべた。 鬼太郎もほっとして笑顔を返す。 再び振り向いて去っていく後姿を、池の畔を彩る満開の萩の花が夕風に揺れながら見送っていた。 おしまい
お分かりとは思いますが、4作目の中でもあまりに有名な「三匹の刺客」に登場した妖怪様を勝手に使ってのSSでございます。 |