鋏 ショキ、ショキ、ショキ。 冷たい金属の無機質な音が陽だまりに響く。 はら、はら、はら。 柔らかな猫毛が短い針のように舞い散り、萌え出たばかりの若草の上に降る。 同じように伸びゆく命であるはずなのに、否定され断ち切られた成長の証。 閉じられた瞳から涙が落ちないように、猫娘は唇をきゅっと噛み締めた。 * * * 「いつのまにか、ずいぶん伸びたのう。」 ことの始まりは、砂かけの言葉だった。 「なにが?」 部屋に遊びに来て、古い本の頁をめくっていた猫娘が顔を上げずに言った。 「おぬしの髪じゃよ。前髪が目に入りそうじゃ。」 「え、そう?」 顎を引いて上目遣いに、瞼にかかる前髪を覗き込む。 砂かけは猫娘の近くに寄り、その頭髪をしげしげと眺めながら顔をしかめた。 「芽吹き時じゃしのう。襟足も伸びて不精になっておるわ。」 しかし、それを聞いた猫娘は、嬉しそうに顔をほころばせる。 「ほんと? やっと伸びてきたんだ。やったあ。」 自らの襟足を逆しまに撫で上げ、わずかに指にかかる毛髪の感触を確かめる。 「うわあ、本当だ。いつのまにか、こんなに伸びてたんだ!」 何度も撫で上げては頬を緩める猫娘を尻目に、砂かけはどっこいしょとおもむろに立ち上がり、箪笥からなにやら取り出した。 「さあ、猫娘、表へ出るぞ。」 「どこへ行くの?」 きょとんとして聞いた猫娘に、砂かけは手招きしながら言う。 「外で散髪してやろう。もう大分暖かくなったし、気持ちええぞ。」 手に持った髪切り鋏と剃刀を見せて笑った。 猫娘は驚いて目を見開き、髪をぎゅっと掴んで言った。 「やだっ! あたし、切らない!」 「なにを言っとるんじゃ。そのままじゃ見苦しいぞ。ちゃんときれいに切ってやるから、はよう来い。」 砂かけが促しても、猫娘は頑として動かない。 「やだってば! このままでいいの!」 「嫌なことなら、なおさら早く終わらせたほうがよかろう。ささ、早う。」 几帳面で、思い立ったらすぐに行動しないと気が済まない性質の砂かけは、少し焦れて催促する。 「嫌だもん! 絶対切らない!」 猫娘も意地になって言い返す。 「ええい、わからぬことを…!」 砂かけは猫娘の傍らに戻ると腕をぐいと引っ張り上げ、ほれほれと急かす。 猫娘はぺったりと座り込んだまま、砂かけの顔をきっと見上げて言った。 「あたし、髪の毛伸ばすんだもん。おばばみたいに長くするんだもん!」 「なにを言うておるか。まだおぬしは幼いし、それだけおてんばなのじゃから、短いほうがいいんじゃ!」 「おっ…幼くないもんっ! こんな髪型だから幼く見えるだけだよ。あたしだって、もっとオシャレすれば大人っぽくなるもん!」 「そんなだらしのない髪のどこがオシャレじゃ! 美しいおなごになりたければ、まず身なりを整えることじゃ!」 砂かけの一喝にも怯まず、まっすぐに視線をぶつけて言い返す。 「…やっと、やっとここまで伸びたんだよ。大事に伸ばすの!」 言ううちに大きな目が微かに潤んでくる。 「だって…、伸びた分だけ、成長したって証拠でしょう? この髪が肩にかかる頃には大人の女の人になれる…かも、しれないって…。」 言いよどむと、砂かけはやれやれとひとつ溜息をつき、掴んでいた手を離した。 「おぬしはまだ、そんなことを言っておるのか…。」 「だって…。」 大人の女の人になりたい―― 以前、猫娘のその願いをラクシャサに利用され、鬼太郎や仲間たちを巻き込み窮地に追いこまれたことがあった。 猫娘は事件後しばらく、叶わなかった願いを思ってか、みんなに迷惑をかけたことを悔いてか、ずっとふさぎこんでいた。 ところが、ある日鬼太郎にソフトクリームをご馳走してもらったと言って笑顔で帰ってきて以来、猫娘は憑き物が落ちたようにすっきりと明るい顔をして、その願いを口にしなくなったのだ。 鬼太郎とふたりでどう話し合ったのか砂かけは知らないが、その時に納得したのだろうと思っていた。 それから長い時を経て、再び同じ望みを聞くとは思いもよらなかった。 「そんなに急いても仕方あるまい。今、大人の姿になることが無意味なことじゃと、あの時わかったはずじゃないのか。」 こう言う言葉には、砂かけの願望も入っている。 鬼太郎にも猫娘にも、まだまだ子供のまま、自分の懐の中にいてほしいのだ。 「違うよ、おばば。そうじゃないの…。」 猫娘は何か言いたげに、でも言いにくそうに口ごもっている。 「なんじゃ。はっきり言わんかい。」 「…言っても笑わない?」 「そんなこと、言ってみなきゃわからんわい。」 「じゃあ、言わないっ!」 ぷぅっと頬を膨らます。 「ならば、問答無用で切る!」 砂かけが鋏を構えて凄めば、さすがの猫娘も降参するしかない。 「わかった、わかったよう…。じゃあ、笑わないでよ…。」 「出来る限りの努力はしよう。」 砂かけが畏まって正面に正座すると、猫娘も観念して口を開いた。 「あたしね…、鬼太郎のお母さんになりたいの。」 砂かけは笑わなかった。 しかし、あんぐりと口を開けて、声を出すのにしばしかかった。 「…な…なんじゃと?」 「だからー、お母さん!」 「そりゃ、どういう意味じゃ?」 狐につままれたような顔で再度問いかけると、猫娘は照れ隠しに肩を竦めてから語り始めた。 「あたし、わかったんだ。鬼太郎を一番幸せに出来るのは、鬼太郎のお母さんなんだよ。」 それはそうだ、と砂かけは思う。 鬼太郎はまだ、恋愛をするよりも母を慕う年頃だ。鬼太郎がもっとも求めているのは、恋人との甘い時でなく、母の温もりなのだろう。 だからこそ砂かけも、母のような愛情を鬼太郎に注いでいるのだ。 それにしても、鬼太郎とたいして変わらぬ年頃の娘が母になりたいというのはどういうことか。 砂かけは、まだ腑に落ちない様子で聞いている。 「ほら、前にヒ一族の巫女に襲われて、鬼太郎のお母さんの魂が助けてくれたことがあったでしょう。」 「おお、そんなこともあったのう。あの時はえらい目にあったわい。」 「あの時ね、初めにあの巫女がお母さんに化けて鬼太郎を騙して、毒を盛ったのよ。」 「なにっ、あやつ、そんなに卑劣なことを…!」 鬼太郎がヒ一族の巫女に毒を盛られたことや、そのピンチを母の魂の化身である蝶が救ったことは砂かけも聞いていたが、母親に化けたことは知らなかった。 「あいつのやったことは許せないけど、ただ、その偽のお母さんが作ったごはんを食べているときの鬼太郎、すっごく嬉しそうだったのよ。」 ふと寂しそうに、猫娘は視線を落とした。 「あの時の鬼太郎…、あんなに嬉しそうな声、聞いたことがなかった。初めて見たの。本当に幸せそうな鬼太郎の笑顔…。」 その姿を瞼に浮かべるかのようにそっと目を伏せる。 「鬼太郎に必要なのは、幼馴染の女の子でもきれいなお姉さんでもなくて、お母さんなんだよね。」 「たしかにそうかもしれん。じゃが、だからといって、なにもおぬしが…」 呆れ顔で砂かけが口を挟んだ。 「母親代わりなんて無理だって言いたいんでしょ!」 拗ねたように砂かけを睨みつける。 「砂かけはいいよね。鬼太郎に、お母さんみたいに慕われててさ!」 もしかしたら、自分には向けられたことのないあんな笑顔や弾む声を、砂かけは知っていたのかもしれない。 そう思うと、猫娘の胸はもやもやと翳った。 「あたしだって早く大きくなって、お母さんの姿で鬼太郎にごはんを作りたいの。アルバイトしてお金貯めて、おいしい尾頭付きのお魚のご馳走作って…。」 あのときの笑顔をもう一度見たい。あの弾んだ声をもう一度聴きたい。 それを自分の力で出来たら、どんなに幸せだろう。 そして今度は決してその笑顔を曇らせないように、守りぬくのだ。 今のままでは助けられることばかりが多くて、ほとんど鬼太郎に甘えてもらえない。 鬼太郎の体をすっぽり包む広い胸で、長い腕で、大丈夫だよって抱きしめたい。 どんなものからも、鬼太郎の安らぎを守りたい。 そんな猫娘の気持ちを、砂かけはようやく理解した。 以前は自分の感情を満たすために大人になりたがっていた少女が、今は相手を思い遣って大人になりたいという。 これもひとつの成長だろうと、砂かけはひとり頷く。 (なるほど、器の成長は、心の成長に連れてのことなのやもしれんな…。) そして優しく微笑みかけた。 「のう、猫娘。」 「なあに?」 「誰しもそれぞれ、持って生まれた役割がある。それを他の者が代わることなど出来ぬのじゃ。」 「わかってるよ、ほんとは。母親になんてなれっこないって…。でもせめて、少しでもお母さんに似せたいの。たとえば後姿だけでも、鬼太郎がお母さんを思うことが出来たらいいなって…。」 このまま幼い自分でいるよりは、ずっと鬼太郎を幸せに出来るような気がする、ただそれだけだった。 「鬼太郎の母親はふたりも要らん。」 穏やかな口調ながらも有無を言わさぬ言葉が砂かけの口から零れた。 「母親代わりも、一人で十分じゃ。」 その“一人”とは、もちろん砂かけ自身を指すのだろう。猫娘は返す言葉もなく俯いた。 「それじゃ、あたしは…。」 言いかけた猫娘の言葉を遮り、砂かけが先ほどよりももっとゆっくりと言う。 「鬼太郎をまっすぐに信じて、いつも傍にいてくれる娘も、一人しかおらん、な。」 思わず見上げた猫娘に、砂かけはにっと笑いかけた。 「おぬしが母親になってしまったら、一体誰が、同じ目線であやつを支えていくんじゃ?」 「同じ…目線?」 「そうじゃよ。母親や母親代わりのおばばでは、望んでも持てぬ目線じゃ。しかも、鬼太郎とは違うものを捕らえ、補佐する力を持っている。」 「そ…そうかなぁ。」 思いがけぬ言葉に、猫娘は素直に頬を赤らめ、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。 「よいか、猫娘。鬼太郎にとって、永遠に母親という存在は唯一じゃ。じゃが、まだ子供じゃから最低限の養育が必要で、目玉の親父どのに出来ない部分をこのおばばが補っておる。これは、女性で年長者であるわしが、一番の適任じゃと思うておる。」 これには猫娘も反論できない。なにしろ、猫娘の人生経験は妖怪にしてはまだ浅く、未熟なのは否定できないのだ。 そんな自分が、形ばかり大人になって母親に似せても、砂かけに敵うはずはない。 「やっぱり、あたしじゃダメかぁ…。」 がっくりと肩を落とす猫娘の背中を、砂かけは優しくさすった。 「まあそうがっかりしたものではないぞ。確かにわしはおぬしの知らぬ鬼太郎の顔を知っておるやもしれん。じゃが、おぬしとて、わしや母親には決して見せない鬼太郎の顔を知っておるはずじゃ。」 「え…、そ、そうかな?」 「まったく…、自分のことは少しもわかっておらんのか。」 やれやれと、また吐息を落とす。 「もっとよく、鬼太郎のことを見るんじゃな。そうすれば、母親にならずとも、おぬしなりに鬼太郎を幸せにする方法がわかるじゃろうて。」 「あたしなりに…」 そんなことが出来るのかな、と首を傾げて考えているうちに、砂かけは再び猫娘の腕を取った。 「さあ、わかったら髪を切るぞ。」 「ええー! やっぱり切るの? 別に伸ばしたっていいじゃない!」 まだ頑張って抵抗する猫娘に、砂かけは厳しい顔で言う。 「よいか、猫娘。妖怪の姿は観念の具象化。だからこそイメエジというものが大切なんじゃ。わしも児啼きも、鬼太郎だって、そのイメエジを崩さぬようにあるべき姿格好を守っておる。」 「それはわかってますよー。」 うんざりしたように答える。 今まで猫娘が髪型や服装を変えたいというたびに、同じ説教を聞かされて来たのだ。 「じゃったら話は早い。おぬしはまだ、その髪型を変える時期ではないということじゃ。」 「はああ…、また刈り上げかあ…。」 うな垂れる猫娘をほれほれと促し外へ出る。 椅子に座り、風呂敷を肩にかけられてもまだ猫娘は往生際が悪い。 「今時、こんな髪型の女の子なんていないよー。」 「おぬしが生まれた頃は、女学生といえばこういう髪型じゃったんじゃ!」 「でもさ、妖怪も時代に合わせて姿を変えるべきなんじゃない?」 「ならおぬしは、鬼太郎がお尻の見えそうなじーぱんや、かかとを潰した運動靴を穿いて、えあがんやばたふらいないふで攻撃してもいいと言うのか?」 「そんなのイヤだけど…。…でもちょっとかっこいいかも。」 「なに言っておるか! ほれ、切るぞ!」 「はいはい。砂かけの姐御にはかないませんよー。」 ようやく観念して、静かに目を伏せ口を結んだ。 「…まあ、時代が移って人間たちの意識が変われば、おのずとわしらの姿も変わってくるじゃろう。妖怪とは、そういったものじゃ。」 一瞬の沈黙の後、慰めるつもりでそう言いながら、砂かけは猫娘の横顔をじっと見つめた。 切れ長のまなじりには、いつの間にか幼さが消え、娘らしい清潔さが漂う。 やはり猫娘は、一歩一歩着実に大人びてきている。 (もしやすると、猫娘の髪を切るのはこれが最後になるかもしれんのう…。) 砂かけは寂しそうに鋏を見つめ、その冷たい切っ先を柔らかな猫毛に差し入れた。 おしまい
前作からかなりのブランクがあります。正直、本調子ではない作品です。 |