蒼月夜 海は静かに凪いで、潮風も穏やかだ。 ついさっき昇ってきた月は夜の闇を容赦なく照らし、海辺の景色を青白く不安げに映し出していた。 人目を避けてのんびりと家路を辿るぼくらには、海と空の境もわからないほどの闇のほうが好都合なのに、砂浜も泡立つ波もぼんやりと光を帯びて、闇を打ち消す。 この清浄な光は嫌いじゃないけど、今は煩わしい。 いっそ、手の先までしか見えないほどの闇ならよかったのに。そうしたら、手を繋ぐ口実になるのに。 「見事な月夜じゃのう。月見にいい季節になったわい。」 ぼくの気も知らないで、父さんが陽気な声を上げた。 「…はい。」 反論しても仕方ないから、短く応える。 こんなときは、大抵父さんと意見の合う猫娘が合いの手を入れてくれるんだけど…。 おかしい。 ぼくのすぐ後ろをついてきているはずの猫娘から、何の反応も無いなんて。 一緒にこの月夜を賞賛して、ついでに二人して月見の宴の計画でも立てそうなものなのに。 振り向くと、そこにいるはずの姿がない。 また、どこかで寄り道してるのかな。 見回せば、少し離れた波打ち際を裸足で歩く、赤いワンピース姿が見えた。 赤い靴を一つずつ、両手に持って、寄せては引く波を追ったり逃げたり、軽快に飛び跳ねながら。 ついさっきまでぼくの後ろにいたのに、いつの間に波打ち際まで行ったんだろう。 まったく、くるくるとよく動く。 「猫娘。」 ゆっくり近づきながら呼びかければ、笑顔で振り向く。いつものように。 「ねえ、見て、鬼太郎。海に月の道が出来てるの。銀色に光ってすごく綺麗。」 指差すほうを見れば、東向きの海の上の月からぼくらのいる波打ち際まで、静かな水面を一直線に月影が伸びている。 「なるほどね。」 「ねっ。星が敷き詰められてるみたいでしょ。」 そう言うと水面を弾かせながら、引く波を追いかけて走り出す。 かと思うと、寄せる波を膝まで被って慌てて戻ってくる。 「どうかして、あの月の道を歩けないかと思うんだけど、やっぱりダメねぇ。沈んじゃう。」 大笑いしながら、髪に付いた滴を払った。 月の道を歩く、か。 まったく、おかしなことを考えつくんだから。 思わず噴出して、 「そりゃ無理だよ。光が水面に映ってるだけなんだから。」 茶化すと、少しムッとして口を尖らせた。 「でもさ、この光は月までまっすぐ続いているんだよ。もしかしたら、あたしたちの知らない道かもしれないじゃない。人間には見えないけどあたしたちだけが知ってる、地獄や霊界への道があるみたいにさ。」 そりゃあ、世の中には知っている者にしか通れない秘密の道はいくらでもある。ぼくら妖怪が使う道、神様が使う道、猫が使う道、虫だけが使う道…。 でも猫娘の発想は、ぶっ飛びすぎていると思う。月が道を使うとも思えないし。 笑いを堪えて猫娘の横顔を覗き込めば、その目は思いの外真剣だった。 茶化したのはまずかったかなと思った時、頭の上から声がした。 「うむ。ありえん話じゃないぞ。時間、空間、あらゆる偶然が重なったときにだけ、通ることが出来る道もあるからのう。一度見つけた道が、二度と見つからないこともある。気になった道は辿ってみたらいいんじゃ。無闇に深入りするのは危険じゃがな。」 この父さんの言葉に、猫娘はそれは嬉しそうに笑った。 「うわー、ホント? 親父さんが言うんだもん、間違いないわよねぇ。」 猫娘にとって、いや、もちろんぼくにとってもだけど、父さんの言葉というのは絶大な信頼があるんだ。 少し妬けるけど、それは父さんには敵わない。 ほら今も、父さんの言葉に安心して、また満足そうに静かな水面を見つめている。 ぼくはその大きな眸に見入っていた。 細かい波が月明かりを無数に砕いて乱反射させている。 猫娘の眸はその光をすべて吸い込んでしまうかと思うほど、深く深く澄んでいる。 ぼんやりと見つめるうちに、うっかりぼくまで吸い寄せられそうな気持ちになって慌てて目を逸らし、同じように水面を眺めた。 眼前に伸びる月の道。 道…ねぇ。そんな風に思ったことはなかったな。 その時、砂浜沿いの国道を一台の車が通り過ぎる音がして、強いヘッドライトの光がぼくらを一瞬照らした。 ハッと我に返る。 「さあ、もう行こう。早めに山に入ったほうがよさそうだ。」 いつまでも水面を眺めている猫娘を促すと、「あ、うん!」と言って素直についてきた。 靴を両手にぶらさげて、裸足のまま。 別に門限も明日の予定もない身なのだから、のんびり行ったって構わないんだけど、こう明るい浜辺ではいつ人間に見つかるかわからない。 子供二人で夜中に歩いているのを見られたら、お節介な人間たちが騒ぎ出して面倒なことになるだろう。 それを避けたくて、つい急かしてしまった。 そもそも、こんな時間にこんなところを歩いているのはぼくの我侭で、猫娘はそれに付き合ってくれてるわけなんだけど。 妖怪ポストに届いた手紙を受けて、この海辺の小さな町に来たのは昼前だった。 事件は地元の土地神が、最近の人間の不信心に怒って起こしたささやかな反乱だったが、もともとその神は穏やかな気質だったようで、大した戦いもなく、夕方には話し合いで解決出来た。 依頼主の家で夕御飯をご馳走になってから、泊まっていけとか、駅まで送るとか、交通費は出すとか言う申し出をすべて断って町を出た。 カラスヘリコプターも呼ばない。 歩いて帰りたかった。 理由なんてない。ただ、そういう気分だったんだ。 強いて言うなら、来るときにカラスヘリコプターから見下ろしたこの町の海がとても綺麗だったのと、初秋の海風の吹く澄んだ星空が気持ちよかったから。 そして、今日の騒動が、土地神や妖怪たちと村の人たちとの話し合いで、お互いに理解を深めて解決出来たことが嬉しかったから。 力ずくでなく、互いに納得し認め合って解決出来ることはめったにないけど、そんなときにはすごく気分がいいんだ。何キロ歩いたって、疲れない気がする。 それから、一緒にいたのが猫娘だったから…かな。 もし、おばばや一反木綿やねずみ男だったら、歩いて帰ろうなんて考えなかったと思う。 どうしてなのかは、わからないけれど。 とにかく、ぼくは歩いた。 村人たちに別れを告げた後、なんの理由も言わずに「さあ、帰ろう。」と海辺の道へ誘(いざな)うぼくに、猫娘は素直についてきた。 ここからゲゲゲの森へは、ぼくら妖怪の足なら半日くらいの距離だ。着くのは明日の昼前になるだろう。 でも、カラスヘリコプターを呼ばないことへの苦情も、なぜ歩くのかと言う疑問も漏らさなかった。むしろ何だか嬉しそうに見えた。 もちろん、頭の上の父さんからも苦情は無い。 「歩いて帰るにはもってこいの気候じゃのう。」なんて上機嫌だ。 だからそのまま、歩き続けた。自分の好きなペースで、黙々と。 今日会った人たちの笑顔。 村人に囲まれた土地神の嬉しそうな眼。 それを慕う妖怪たちの、穏やかな表情。 そんなものを思い出しながら歩く。 いつか、日本中にそんな長閑な光景が戻ってくれたら…。 ぼくや父さんの願いは、ただの理想論じゃないはずだ。 …ああ、いけない。あんまり気分がよくて、つい夢想に耽ってしまう。 気づけば、無辺に広がっていた砂浜はもうすぐ途切れ、海岸まで迫った山の深い闇がその先に見えた。 砂浜の景色を猫娘と一緒に堪能するつもりで歩いたのに、ほとんど言葉を交わすことなく通り過ぎてしまった。 ちょっと身勝手が過ぎただろうか。 猫娘、大丈夫かな。「ついてこなきゃよかった」なんて思っていないだろうか。 不安になって、恐る恐る振り向いた。 …よかった、ちゃんとついてきていた。 十歩分くらい離れたところを、ぼくと同じペースで。 だけど、いつの間に拾ったのか、片手には大きな巻貝を持っている。 それを耳に押し当て、小首を傾げながら歩いてくる。 あんなに大きな貝殻、どこで見つけたんだろう。 ぼくのほうが先に歩いていたのに、気付かなかった。 「今度は何をやっているのさ。」 声をかけると、猫娘はぼくの二歩手前で立ち止まり、首を傾げたまま目をきょろりとさせた。 「貝の声を聞いてるの。」 静かにして、とでも言うように、小声で言う。 「ああ、貝殻を押し当てると、波の音がするっていうからね。」 幼い頃、ぼくもやってみたことがある。 でも、ごおおっと鳴るばかりで、波の音には聞こえなかった。 「違うわよ。貝殻の声。」 「声?」 「うん。波みたいな音に紛れてね、時々ごしょごしょって不思議な音が聞こえるのよ。それって、何か貝殻が言ってるんじゃないかと思って。」 …また突拍子もないことを言い出した。 それはただ、自分の手や服や髪が何かに擦れた音が反響しているだけじゃないのかな。 でもそんなこと言ったら、また機嫌を損ねるかもしれない。 こんなときはまた、父さんが気の利いたことでも言ってくれるといいんだけど。 「うーん、どうかなぁ。ねえ、父さん。」 何も言ってくれないから、仕方なく父さんに振ってみた。 でも、返事が無い。代わりに、小さな寝息が聞こえてきた。 いつの間にか眠っていたんだ。 仕方ない。父さんみたいに気の利いたことは言えないけど、「そうかもしれないね。」とだけ答えた。 それだけなのに、猫娘はさっきと同じように笑った。 なんだか、嬉しい。 それから猫娘は、もう片方の手に持っていた靴を砂の上に落とすと、その手で反対側の耳を塞いだ。 もっとよく貝の音…いや、声が聞こえるようにだろう。 この姿、前にも見たことがある。 そうだ、たしか、ぼくに化けて人魚の子供を売っていたさざえ鬼を退治しに行った時だ。 ぼくとねずみ男と一緒に海辺を歩く間、猫娘はずっとこんな風に肩耳に貝殻を押し当て、もう片方の耳を塞ぎ、首を傾げながら防波堤の上を歩いていたっけ。 あの時も、貝の声を聞こうとしていたんだろうか。 そういえば、猫娘はいつも、ぼくと一緒に歩きながらぼくとは別のものを見ている。 ぼくには見つけられないものを見つける。 それでも、ぼくと同じ方向に、同じ速度で歩いている。 振り向けばきっと目が合い、笑顔を返してくる。 その距離感が、とても心地いい。 だからと言って油断していると、時々予想もつかない言動に驚かされる。 その刺激が、愉快でたまらない。 一緒にいる穏やかな時間が、とても愛おしい。 戦いを手伝わせる気もないのに妖怪退治に猫娘を連れてきたり、こうして気ままな夜歩きにつき合わせたりしてしまうのはなぜなのか、自分でも不思議に思うことがある。 ポストに手紙が来た時に猫娘がいれば、当然一緒に来ると思って、意思も尋ねず二人分のカラスヘリコプターを用意する。 それは、こんな安らぎの時を少しでも長く過ごしたくて、無意識にしてしまうのかもしれない。 辛い戦いの後でも、あの笑顔に救われる。 幸せな時間ならなおさら、猫娘と分かち合いたい。 そんなぼくのわがままを、猫娘はいつも黙って受け入れてくれる。 何も言わずに、当たり前のようについてきてくれる。 本当は辛いんじゃないかな。嫌じゃないのかな。 時々不安に思うけれど、振り返るといつも幸せそうな笑顔が返ってくるから、結局それに甘えてしまう。 父さんを守りながら、ぼくが敵と戦う姿をただ見ているのは、きっと辛いことに違いないのに。 本来のんきで平和好きな猫妖怪なのに、どうして、こんな戦いばかりの日々に付き合ってくれるんだろう。 「鬼太郎も聞いてみる?」 ふいに猫娘から声がかかり、巻貝が差し出された。 ぼくは首を横に振った。ぼくには貝の声など、聞こえそうもないから。 「いや、いいよ。もし、貝殻が何か言ったら、貸してくれよ。」 そして砂の上の赤い靴を拾って、砂を払った。 「さあ、もうすぐ浜が終わって山道に入るよ。そろそろ靴を履いたほうがいい。」 「あ、ありがとう。」 猫娘は靴を履くと、波打ち際まで走って行き、貝殻を転がして戻ってきた。 「あれ、もう貝殻の声を聞かなくていいのかい。」 「うん。あの貝殻、喋らないみたいだから。」 「お土産に持って帰ればいいのに。」 「ううん。貝は海と一緒にいるほうが幸せよ。ゲゲゲの森に連れて行ったらかわいそう。」 穏やかに微笑みながらそう言った。 こういう台詞を言うときの猫娘は、妙に大人びてドキッとする。 すごく子供っぽかったり、急に大人っぽくなったり、まったく油断出来ないんだ。 それから先は、靴に入る砂に文句を言いながら、ぼくの先に立って歩いてたけど、山道に入る直前、もう一度海を振り返った。 「本当にきれいな海だったねー。まだ、月の道があたしたちの方に伸びてるよ。」 名残惜しそうに、月の道とやらを見ている。 さっきまでは煩わしかったはずの青い月が、今はとても優しく温かく見える。 きっと、猫娘のお陰なんだろう。 あの月の道も、本当に渡れるような気さえしてくる。 「そうだね。今日はあの道を渡れなくて残念だったけど。」 自然に、そんな言葉が口をついた。 「さ、今度は山のお散歩でしょ♪」 じっと海を見つめていたかと思うと、急にくるりと振り返って、弾むような足取りで山道に入っていった。 ふふ。猫娘って、本当に前向きだな。 その明るさや笑顔に、今までどれほど救われてきたか。 笑顔でいるのが辛い時だってあるだろうに。 先を行く小さな背中を見ていたら、ふと湧いた疑問が知らず口をついた。 「猫娘、辛くはないのかい?」 猫娘の足がぴたりと止まった。 しまった、いきなり場違いなことを聞いてしまったか…と思ったけど、振り返った猫娘は、いつも通りの笑顔だった。 「ううん、ちっとも。だって、鬼太郎が一緒だもん。」 ずきん、と胸が疼く。 こういう殺し文句、どうしてそんな笑顔でさらりと言えるんだろう。 むしろ意識していないから平気で口に出来るんだろうな…。 「鬼太郎は辛いの?」 思いもかけない反撃にあった。 ええーっと、ぼくは…、辛くないと言えば嘘になるけど、猫娘の前ではそんなことも吹き飛んじゃうから…。 で、でもそんな台詞は言えないし…。 猫娘はきょとんとした目で首を傾げ、ぼくの返事を待っている。 まいったなぁ。 仕方ないから、出来るだけなんでもない振りをして、猫娘の言葉を真似てみた。 「いや、猫娘が一緒だからね。」 よし、さりげなく言えた。それにしても、なんて恥ずかしい台詞。父さんが寝ててくれてよかった。 でも、むしろ猫娘のほうが、ぼくの答えに耳まで真っ赤にして照れている。 自分は平気で同じことを言ったくせに、言われるのは恥ずかしいのか。本当に変なヤツだな。 「さあ、行こうか。山の中は暗いから、あんまり道草しないでくれよ。見つけるのが大変だからね。」 わざとそっけない態度で言い、照れて俯いている猫娘を追い越して先に進んだ。 「あっ、待ってよ、鬼太郎!」 慌てて追いかけてくる様子が背中でもわかる。 「ほら。」 振り向かず後ろ手に差し出した手に、するりと入り込んでくる細い指は、いつも温かい。 ぼくらにとって当たり前のそんな行動のひとつひとつが、今夜はやけに照れくさい。 こんな気持ちになるのは、青白い月の光の悪戯なのか。 ぼくの手の中の華奢な手を、いつもより少し強く握り締めて、月明かりのまばらに落ちる針葉樹の山道をゆっくり、ゆっくりと進んだ。 この安らかな時間が少しでも長く続くように。 おしまい
なんと一年以上のブランクを乗り越えての復活SSでございます。 |