ひねもす、のたり。 きらきらと陽光を転がす川面を揺らし、若鮎が一尾、ぱしゃんと跳ねた。 ほぼ同時に、一陣の風のような速さで飛んできた何ものかが若鮎の腹を突き刺し、そのまま空で捕らえてしまった。 「やったーあ! これで四匹目!」 若鮎を捕らえた主は、逃がさぬよう腹に深く食い込ませた爪を慎重に抜きながら、ころころと可愛らしく笑う。 見た目は大人しそうな女の子なのに、鮎を一瞬で掴みどる技には野生の獣のような峻厳さがある。 それまでは五感を研ぎ澄まし緊張に張り詰めていた横顔が、ふっと緩んでいつもの無邪気な笑顔になった。 すぐ隣で惚けたように眺めていた鬼太郎が、ピューッと感嘆の口笛を吹く。 「うまいもんだなぁ。さすが、猫族妖怪だね。」 「まあね。今日は気合入ってるもん!」 明るい調子で話しながら、手際よく捕ったばかりの若鮎を締め、捌いて、用意した竹串に刺していった。 「これだけあれば、二人で食べるには十分ね。」 そう笑いかけられて、鬼太郎は改めて猫娘と二人きりであることに気がついた。 * * * * * 今朝早く鬼太郎の家を訪れた猫娘は、以前自ら言い出した「ゲゲゲの森春満喫日帰りツアー」とやらに行くのだと、文句を言う目玉の親父を尻目に寝ぼけ眼の鬼太郎を連れ出したのだ。 いつもながら、こういうことには俄然張り切る猫娘は、大きなリュックサックになにやらいっぱい詰め込んできた。 中身を聞いても秘密だというし、鬼太郎が荷物を持つと申し出ても自分で持つからと譲らない。 仕方なく、鬼太郎は導かれるまま、のこのことついていくこととなった。 春の初めの惰眠に溺れていた頃、猫娘によって春の到来に気づかされたものの、その後も相変わらず妖怪退治の依頼に追われ、季節の移ろいに心を寄せる余裕もなかった。 世は春たけなわだというのに、日々疲労の色を濃くしていく鬼太郎を見るにつけ、猫娘はいてもたってもいられなくなり、強行に及んだというわけだ。 連れ出されたときには眠いやら目玉の親父に申し訳ないやらで機嫌の悪かった鬼太郎も、晩春の朝の爽やかさに次第に心が晴れていった。 「春はあけぼのって時期にはちょっと遅いけど、新緑の朝も気持ちいいものだね。」 鬼太郎が大きく伸びをしながら言うのを聞いて、猫娘は満足そうに言う。 「たまには、早起きもいいもんでしょ。」 朝の光は清々しく、柔らかな若葉に透けて優しく降り注ぐ。 早春には低く垂れ込めていた空も、いつの間にかずいぶん高く澄み渡り、燕が風のように飛び交っていた。 そんな様子を眺めながら、通いなれた森の道を並んで歩いた。 いつもはおしゃべりで賑やかな猫娘が、今日はほとんど口も開かず、ゆっくり、ゆっくり歩く。 木漏れ日のちらちらと揺れる森を黙って進むうちに、鬼太郎は耳に届く様々な森の声に気付いた。 木の葉擦れの音、枝の軋む音、風の抜ける音、若葉の萌え出る音、蕾のほころぶ音、土の目覚める音、鳥の囀り、虫の羽音…。 すべてが変わらぬまま鬼太郎に話し掛けていたのに、その言葉に耳を傾ける心を忘れかけていた。 「思い出したよ。この声。そう、少し前までは毎日、聴いていたっけ。」 いつから耳を塞いでいたんだろう。 ふと歩を止めた鬼太郎が懐かしむように目を伏せて聞き入っている姿を見ると、猫娘は嬉しそうに笑った。 「そうだよ。みんなずっと、鬼太郎が思い出してくれるのを待ってたんだよ。」 それからしばらくの間そこに佇んで五感を満たすと、静寂を裂いて響いた駒鳥の声をきっかけに、 「さ、行こう。鬼太郎に見せたいものがたっくさんあるんだから。」 猫娘は、まだ名残惜しそうな鬼太郎を促して歩き始めた。 ゆっくり、ゆっくりと。 やがて近くを流れる沢を遡り、たどりついた水辺の陽だまりで、猫娘は荷を降ろした。 「ここね、私のお気に入りの場所なの。お魚もいっぱいいるんだよ。ここで少し遊んでからお昼にしようね。」 この場所は秘密にしてね、と唇に人差し指をくっつけながらウィンクする。 さりげない仕種に鬼太郎はどきりと胸を躍らせるが、そんなことには頓着しない猫娘はくるりと背を向けると、いきなり靴を脱いで流れに入っていった。 「猫娘っ、よせよ! まだ水は冷たいぜ。」 鬼太郎は驚いて止めようとしたが、猫娘は無邪気に振り向き、 「平気よぉ。川に入るのは慣れてるもん。今、おいしいお魚捕るから、鬼太郎はその辺でゆっくり休んでてよ。」 そう言いながら、深みへと進んでいった。 「そういうわけには行かないよ。」 猫娘が冷たい水に入って魚を捕っているというのに、一人でのんびり寝転がってもいられない。 鬼太郎も袖をまくって下駄を脱ぐと、流れに入って鮎を狙い始めた。 「鬼太郎、ダメだよ、休んでなきゃ。せっかく…」 「ぼくもやってみたいんだ…っと! ん、うまくいかないな…。」 目の前に来た立派な魚に手を伸ばしたものの、さらりとかわされた。 そうなるとますます熱が入り、魚が近づくたびに手を伸ばすが、ほとんど触ることすら出来ず、ときどき手に触れてもするりと抜けていってしまう。 どんなに強い妖怪でも凶悪な人間でも、常に冷静に相手を見ながら立ち向かっていく鬼太郎が、小さな魚相手に梃子ずる姿はおかしくて、猫娘は声を上げて笑った。 鬼太郎もつられて笑いながら口を尖らせた。 「笑うことないだろ。釣りは得意なんだけど、掴み取りは初めてなんだよ。でも、結構楽しいな。」 「ただ追いかけたってダメよ。気配を殺して、魚が油断した一瞬を狙うの。」 「言うのは簡単だけど、これがなかなか…。」 「こうするのよ。いい、見てて。」 そう言った次の瞬間にはその表情に緊張を走らせ、眼光鋭く水面を眺め始めた。 野生が宿った、と鬼太郎は思った。 その姿は厳かで美しく、鬼太郎は魚のことも水の冷たさも忘れて、ただ猫娘の姿に釘付けになっていた。 * * * * * 「お魚、焼けたよ。はい、鬼太郎の分。」 捕らえた鮎は焚き火でこんがりと焼かれ、鮎特有の芳香を放っていた。 「ありがとう。結局全部、猫娘のお手柄だね。」 あれから鬼太郎は一尾も捕まえることが出来ず、ただ水しぶきを上げて踊るように跳ねる猫娘を見つめていた。 そのままではあまりにばつが悪いので、代わりに火をおこして焚き火を作る役を買って出たのだ。 「まあ、あたしはあんなことしかできないからね。」 猫娘は笑って答えると、今度はリュックサックの中をがさがさと探り、小さな包みをいくつも取り出した。 なかから出てきたのは、おにぎりや野草のおひたし、漬物など。 川原の草地に並べたら、そこはちょっとした春の宴の会場となった。 「すごい、こんなご馳走、久しぶりだよ。」 「やだなぁ、これくらいで大げさだよ。ふだんろくなもの食べてないんでしょ。」 素直に感激する鬼太郎を茶化しはしたが、その寛いだ笑顔を見て内心ほっとしていた。 あまり感情を表に出さない鬼太郎だから、猫娘はときどき、不安になる。 たいていはただぼうっとして、何も考えていないか、猫娘にはどうでもよく思えることを延々と考えているかどちらかなのだが、最近はそんな余裕もなく、ずいぶん疲れているように見えたのだ。 だから、多少強引にでも気分転換に連れ出した。 鬼太郎を守りたい、鬼太郎に笑ってほしい、鬼太郎に幸せになってほしい。 そんな思いが強くて、時々やりすぎてしまうこともあるけれど、そうした猫娘のお陰で鬼太郎の心身が救われていることも事実だった。 今だって、暖かい水辺の草の上で春の恵みをいただきながらとりとめのない話に花を咲かせる二人は、日々の戦いからも他人の相談事からも解き放たれて、ひと時の安らぎに身を預けきっている。 こんな風に心の底から寛ぎ、穏やかな気持ちになるのは、この少女と二人きりのときだけだということは、鬼太郎にもわかっていた。 それが何故なのかという答えは、まだ出さずにいたが。 「ごちそうさま。全部おいしかったよ。」 ほろ苦い春のごちそうは、疲れていた体と頭をしゃっきりと起こしてくれた。 ふと猫娘を見遣れば、まだ鮎の骨にかじりついている。 その真剣な様子がおかしくて、春の景色を眺めるより猫娘を見ていたほうがいいと思ってしまう。 鬼太郎が見入っていることも気づかず、骨まですっかり平らげた猫娘は、ごちそうさま、と小さく手を合わせた。 お腹が満たされると、ようやく鬼太郎は周りの様子に目をやった。 なるほど猫娘推奨の場所だけあって、川原の陽だまりに、春は賑やかに花開いている。 猫娘に捕まらなかった若鮎たちは相変わらず川面の水を跳ね上げていたし、その傍で気持ちよさそうに水浴びをする小鳥もいる。 ただぼんやりとせせらぎに耳を傾けるうちに、まぶたが重くなってきて、鬼太郎は大きなあくびをした。 すると、まるでそれが合図かのように猫娘が立ち上がり、あっという間に後片付けを済まして荷物を背負った。 「それじゃあ、そろそろ行こうよ。」 手招きする猫娘に、鬼太郎は億劫そうに言う。 「もういいよ。ここでのんびりしようよ。ぼくもう、眠くなっちゃって…。」 二つ目の大あくびをはじめた鬼太郎の腕を、猫娘は強く引っ張りあげた。 「だめよぅ。お昼寝をするところは別にあるの! とっておきのお昼寝スポットなんだから、もうちょっと我慢してよ。」 「まいったな、もう…。」 このまま寝かせてほしいのが本音だが、鬼太郎のためにとあちこち案内してくれる猫娘の気持ちを考えると無下にも出来ない。 それに、とっておきのお昼寝スポットというのも非常に気になる。 結局腕を引かれるままに立ち上がり、導かれるまま森へと入っていった。 再び沈黙が訪れ、朽ちた葉を踏みしめる音さえ耳につく静けさの中、二人は森を抜けていった。 木陰から出た途端、照りつける陽射しに、ずいぶん日が高くなっていたことを知る。 そこに広がるのは、青々と茂って風に波打つ草原。 皐月の陽光に暖められた草いきれに満ち、時折過ぎる薫風がそれを掃っていった。 少し前までは若芽や百花がほころぶ、初初しくも頼りない姿だったこの地も、今では瑞々しい生気に溢れ濡れたように輝いていた。 それでも、真夏とは違い胸の空くような心地良さがあるのは、まだ若い草の迸るような生命への喜びと晩春の涼やかな風を感じるからだろう。 圧倒するような生命力の前に立ち尽くす鬼太郎の隣で、猫娘はさっさと荷を降ろすとごろんと寝転んだ。 「ここがねー、最高に気持ちいいのよ。土の匂いと草の匂いがして、風が優しくて、空が大きく見えて。」 そう言って、よく猫がやるように、風に鼻を向けくんくんとその匂いを楽しんだ。 「たしかに、昼寝するのによさそうだ。」 鬼太郎もつられて横になり、両手を頭の後ろに組んで枕にした。 仰いだ空は青く高く、すでに初夏の色を湛えているが、日差しは強すぎず、暖かい。 まだ柔らかい若草の布団はひんやりとして気持ちいい。 踏まれた草の放つ青臭さは気持ちを穏やかにするし、昼寝の邪魔をする小虫もまだ少ない。 膝の丈ほどある草は、寝転んだ二人の姿をすっかり隠してしまうから、二人がここにいることは誰にも気づかれないだろう。 「ここならのんびり眠れそうだ。今度、父さんにも教えてあげよう。」 あくびをしながらそう呟いた。 猫娘は、いつでも父親のことを思い遣る鬼太郎をほほえましく思い、 「鬼太郎は本当に親父さん思いだよねぇ。」 と感心して言ったが、返事がない。 「鬼太郎、もう寝ちゃったの?」 横を見ると、すでに鬼太郎は瞼を伏せ静かな寝息をたてていた。 「寝るの早すぎるよ。もうちょっとおしゃべりしたかったのにぃ。」 とちょっぴり恨みごとを言いながらほっぺをつねってみても、反応がないほど熟睡している。 それほど気を抜いて寝ているのが嬉しいような、寂しいような、心配なような複雑な気持ちで寝顔を見守っていたが、いつしか自分も眠りに落ちていった。 * * * * * 目覚めたとき、鬼太郎は傍らにうずくまる存在に気づいた。 「猫娘…。」 どのくらい寝ていたのか、日はすでに西に傾き始め、わずかながら空が黄金色を帯びている。 昼間は温かくても、まだ時は春、日が傾き始めれば空気も冷える。 もともと体温の低い鬼太郎にはどうということもないが、猫娘は寒いのか、身を縮ませて小さく震えながら寝ている。 「ばかだなぁ、寒がりの癖に。」 ちゃんちゃんこを脱いで大きく広げ猫娘に掛けると、鬼太郎はその穏やかな寝顔に見入った。 「早く起きてくれよ。もっとゆっくり話がしたいのに。」 そういいながら、小さな鼻を摘んでみたが、少し眉をひそめて避けるだけで、そのまま熟睡している。 それほど気を許して寝ているのが嬉しいような、寂しいような、不安なような複雑な気持ちで寝顔を見守っていると、やがて閉じられた瞼がかすかに動き、大きな二つの瞳が開いた。 「…やだ、あたし、寝ちゃったんだ…。あっ、ちゃんちゃんこまで…。」 慌てて身を起こす猫娘を気遣って、鬼太郎はさりげない調子で言った。 「ぼくも今起きたところさ。おかげで、ずいぶんのんびり眠れたよ。」 「そっか…。」 安心したようにため息をつくと、ちゃんちゃんこを返し、手早く乱れた髪や服を整え、荷物をまとめて立ち上がった。 「ちょっと寝過ごしちゃった。夜になる前に、次の場所に行くわよ。」 「またかい? もう十分春を満喫したよ。それより、もっとゆっくり話でもしようよ。」 引き止めるために伸ばした手は逆に掴まれ、猫娘はまた鬼太郎を引っ張り上げながら言った。 「いやぁよ。もう一箇所、どうしても鬼太郎を連れて行きたいところがあるの。お話なら、いつでもできるでしょ。」 「そりゃあそうだけど…。まいったなぁ〜。」 ぶつぶついいながらも、仕方がなく立ち上がり、大きく伸びをした。 こういうときの猫娘には、逆らうのは難しい。怖いのじゃなく、悲しませたくないのだ。 三たび森に入り、木陰の道を進む。 鬼太郎はその道が、まっすぐ我が家へ向かっていることに気づいた。 「どうしたんだい? やっぱり、もう帰ることにした?」 そう尋ねると、猫娘は得意顔で振り向いて、 「ううん。こっちでいいのよ。」 と答えた。 そう言いながらも進む道はやはり家路に違いなく、森の向こうへ日が沈む頃、懐かしい樹上の家が見えてきた。 家を望む池の畔で、猫娘は立ち止まった。 「到着でーす。」 「ぼくの家のすぐ前じゃないか。」 訝しげに呟く鬼太郎に、猫娘は独り言のように言う。 「ここが一番、ステキな春に満ちたところなのよ。鬼太郎がいて、みんなが集う、この場所が。」 鬼太郎はわかったような、まだよくわからないような表情で、しばらく腕組みして考えていたが、やがて思い出したように言った。 「そうだ、父さんを呼んでこよう。きっと待ってるだろうから。」 「ああ、親父さんなら大丈夫よ。おばばたちがアパートに連れて行ってくれてるはずだから。」 「ええ? おばばたちが…?」 猫娘に今日の計画を聞いた砂かけ婆は、目玉の親父は自分たちが預かるから、一日のんびり鬼太郎に羽を伸ばしてもらいなさいと、協力を申し出てくれたのだ。 目玉の親父は鬼太郎にとってもっとも頼りになり、敬愛する存在であると同時に、常に心を配り、気遣い、良い意味で緊張の解けない相手でもあった。 だから、鬼太郎に心から寛いでもらうためには、親子を離す必要があると、砂かけ婆は考えたのだ。 「なんだ、おばばたちまでグルだったのか…。」 鬼太郎はいささか呆れたが、そういうことなら安心してふたりきりの時間を楽しめる、と内心ほくそ笑んだ。 「それじゃ、みんなのご厚意に甘えて、のんびりさせてもらうよ。」 「よかった。じゃあすぐに、夕ご飯を作るからね。鬼太郎は休んでて。」 と言うなり近くの大樹の根方に駆け寄ると、朝から隠してあったらしい鍋やたらいを引っ張り出して準備を始める。 どうせ手伝わせてはもらえないので、鬼太郎は手ごろな岩に座って、もう見飽きた家の前の景色を眺めた。 ところが、改めて見てみると、思いのほか風情のある光景にはっとなる。 淡い紅紫色に染まった空には、おぼろな夕月。 昼間にはあれほど柔らかな色彩に満ちていた芽吹きの森の木々はいまや鈍色の陰となり、そのすべてを池の水面は静かに映している。 鳥たちの寝静まった森は静寂に潜み、代わって池の端ではオケラなどの地虫や蛙が高らかに鳴き始めた。 その鳴き声は家の中でも毎日聞こえてくるから取り立てて聞き入ったことなどなかったが、これも確かに春を告げる使者の囁きだったのだ。 自分が毎日寝起きしているこの場所が、こんなにも美しく春を謳っていたことに、どうして気づかなかったのか。 少し前までは、もっと敏感に自然を感じ、自然の移ろいと共に生きていた。 そんな生き方の素晴らしさを知ってほしくて、自然と神仏と怪と人間とが歩みを揃え、同じものを見ていた頃を思い出してほしくて人間達に関わり始めたのに、いつの間にか自らが人間のペースに巻き込まれていたのかもしれない。 この感動は、「美」を理解する心を持つ、限られた種族にだけ与えられた特権なのに。 そして幽霊族もまた、人間以上にそれを解する心を持った種族なのに。 そんなことを考えるうち、おいしそうな夕餉の匂いが漂ってきた。 振り向くと、猫娘が火にかかった鍋を見ており、鬼太郎の視線に気づいて呼びかける。 「用意できたよー。こっちへどうぞ。」 近づいてくる鬼太郎の表情が朝と比べてはるかに柔和に、のほほんとしているのを、猫娘は見逃さなかった。 夜のごちそうは、どじょう鍋だった。 旬には少し早いが、春になって十分に太ったどじょうは滋養にもなる。 「すごいごちそうだな。なんだか二人だけで食べるのはもったいないみたいだ。」 いつもみんなのことばかり考えている鬼太郎の心配など、とっくに見越していたように猫娘は笑う。 「大丈夫。アパートでも同じものを食べてるはずよ。安心して全部食べて、少しは精をつけなきゃダメだよ。」 「まったく、用意周到だな。」 一日中、猫娘の手のひらの上で転がされているような気がして、鬼太郎は頭を掻いた。 差し向かいに座ると、たまにはどうぞ、と杯が差し出された。見れば猫娘もしっかり杯を持っている。 そうだね、たまには、と互いに徳利を傾け杯を満たして乾杯した。 体は子供でも、互いに半世紀以上を生きる身、酒の飲み方は心得ている。 二人ともあまり強くはないが、一合の徳利を二人で空けるくらいがちょうどいい。 温かい鍋を突きつつ程よく酔いが回ってきたところで、猫娘はやおら立ち上がり、 「それじゃあ、最後にあたしからの春のプレゼントを披露しまーす!」 と、元気よく宣言すると、リュックサックから長く飛び出ていた荷物を取り出してきた。 それは琵琶のような、リュートかマンドリンのような、変わった形の弦楽器。 鬼太郎はかつて、一度だけ猫娘がこの楽器を弾くのを見たことがあった。 以前、ある人間の女の子と親しくしていた頃、その子と弟を招いて森で宴を催したことがあり、その時に猫娘が持ってきて弾いたのだ。 なんでも猫族に伝わる秘蔵の楽器らしく、めったに人前で弾くことはないが、はじめてゲゲゲの森に招いた人間である友人のために特別に披露するのだと、その時に言っていた。 「それ、秘蔵の楽器なんだろう。いいのかい、そんな大切なものを。」 「いいのよ。今日はお世話になってる鬼太郎へのささやかな恩返しの日だもの。こういうときにこそ、活躍してもらわなくちゃ。」 そう言って弦をひとつ弾(はじ)くと、猫の鳴き声のような、ふにゃふにゃとした不思議な音が響く。 その音色は柔らかく、どこかとぼけていて、聞いているだけで楽しくなってくるのだ。 しばらくは調律するように弦を鳴らしていたが、一通りそれがすむと、居住まいをただし目を伏せた。 同時に、流れるように指が動き出す。 以前聴いたときには人間にあわせて人間の曲を弾いたのだが、今、目の前の不思議な楽器は猫娘の爪に弾かれて、聞いたこともない霊妙な旋律を紡ぎだしていた。 その音色につられて、周りの蛙や虫たちが声を合わせて歌い始め、木々や草までが調子を合わせて葉をゆすり、花の蕾みも開きだす。 吹く風は花の香を込め、上弦の月は宵の薄闇を淡く照らす。 酒のせいもあったのだろうか、身を包む協和音に鬼太郎はすっかり夢心地となり、いつしか胸元からオカリナを取り出すと、低く柔らかい音を奏で始めた。 めったに聴かれぬ鬼太郎の優しいオカリナの音色に、猫娘が思わず顔を上げると、目を伏せた鬼太郎の表情はこの上なく穏やかで満ち足りている。 猫娘は嬉しくなって、ますます軽妙に掻き鳴らす。 それにつられて、周りの木々も動物たちも、そして鬼太郎もますます楽しげに奏でる。 愉しく優しいスパイラルが二人を中心に広がり、春の終わりを愛でる宴は夜半まで続いた。 草木も眠る時刻になって。 池の畔は静寂をとりもどしていた。 いつもは夜通し歌い続ける蛙たちも、今宵はもう満足したのか、それとも二人に遠慮しているのか、草陰にひっそりとうずくまっているようだ。 宴の余韻を惜しむように、あるいははしゃぎ疲れた体を癒すように、今は猫娘の指から紡ぎ出される静かな旋律だけが響いている。 大きな楽器を抱えて座る猫娘と背中合わせにもたれあって座り、ただ透明な音色に聴き入っていた鬼太郎が、ふいに口を開いた。 「こんなに心の満ち足りた春は、久しぶりだな。」 それには答えず、猫娘は弦を弾き続ける。 「猫娘の演奏が、一番素敵だったな。こんなにきれいな音色を、ぼくは聞いたことがない。春といわず、夏も、秋も冬も、ずっと聞きたいくらいだよ。」 手放しの賞賛に照れたのか、ほんの少し肩を竦めたが、やはり指を止めることはなかった。 鬼太郎はなにか言いたげに何度か口ごもった後、大きく息を吸い込んで、思い切ったように、でも出来るだけさりげなく言い放った。 「もう、妖怪退治はやめてしまおうかな。」 絶え間なく流れていた旋律が途絶えた。 ほんの一瞬の沈黙が、鬼太郎に重くのしかかった。 酔いの勢いを借りたとはいえ、戯れに言ったわけではない。 あまりに居心地の良い時間をすごすうちに、ふと、そんな思いが心に芽生えたのだ。 もともと、正義を掲げて同胞である妖怪を敵に回して戦う日々に疑問がなかったわけではない。 それでも初心を信じ、胸を掠める疑問を打ち消して進んできた。 しかし、ねこ娘のもたらす安らぎは、時として鬼太郎の心の弱い部分を剥き出しにするのだ。 とはいえ、この言葉を放ったことは、鬼太郎にとっては大きな賭けだった。 今の自分に好意を抱いてくれているこの少女は、脆弱な心の内を知ったらどう思うか…。 正義の味方を放棄した自分は、受け入れてもらえるだろうか。 それを知るのが、怖かった。 「それもいいね。」 沈黙はほんの短い間だった。 拍子抜けするほど明るく答えると、猫娘は振り返った。 真意を測りかねて黙ったままの鬼太郎に、楽しそうに笑いかける。 「そうしたらさ、毎日こうしてのんびり暮らすのもいいよね。春を探して、釣りをして、お昼寝して、歌を歌って…。」 「猫娘…。」 「たまに、ぬらりひょんたちと喧嘩したりしてさ、でも妖怪同士、みんなで仲良く暮らすの。」 「それ、本気で言っているのかい? 妖怪退治を、止めても構わないと…。」 猫娘の目を探りながら問いただす。 「鬼太郎はいつだって、いろんなこと真剣に考えて、一番善い答えを出すって知ってるから。」 そう言って微笑みかける瞳には絶対的な信頼が見て取れて、鬼太郎は面映さに俯いた。 「もし本当にそうしたら、猫娘はどうするつもりだい?」 「その時になったら決めるわ。」 そして再び弦を弾き始めた。 ついてくるとは言わず、でも見捨てられたわけでもなく、とりあえず失望されなかったことに鬼太郎はほっとした。 ねこ娘はもともと自由気ままな猫妖怪だし、今だって彼女の自由意志で傍にいるに過ぎないのだ。 そう考えれば、実に彼女らしい答えだ。 それでも一抹の寂しさを感じながら、流れる音に身を任せていると、耳を掠めたかすかな呟き。 「暢気でぐうたらで情けない鬼太郎も、嫌いじゃないよ。」 その言葉が「その時」への答えなのか、ただの想いの告白なのか、どこまでを意味しているのかわからない。 ただ、めったに鬼太郎への想いをはっきりと口に出さないねこ娘にしては、思い切った意思表示ではあった。 「好き」とはなかなか言えない。お互いに。「嫌いじゃない」は最上級の好意の表現だった。 鬼太郎は、この拙い言葉からそんなねこ娘の気持ちをしっかりと読み取った。 途端、嬉しさのあまりに口元が緩む。 「やっぱり、やめるのはやめた。」 「え?どういうこと?」 「妖怪退治、さ。」 やめたくなったら、いつでもやめられる。 そう思えばなんでもがんばれる気がして、鬼太郎は再び熱い正義感が胸を浸していくのを感じた。 だけど、あせらなくてもいい。 結果を急げば、大切なことを見落としてしまうかもしれないから。 「ねこ娘、もしまた…ぼくが心をなくしかけたら、この楽器を聞かせてくれるかな。」 「もちろん! 鬼太郎が聴きたいって言うなら、いつだって弾いちゃうわよ。」 ねこ娘は自分の演奏が鬼太郎を元気付けられたことが嬉しくて、弦を弾く手に力が篭った。 おぼろ月はとうに沈み、春の宵は、温かくのんびりと更けていく。 夜が明ければ、幼いふたりの妖怪は人間と分かり合える日を信じて、再び茨の道を歩むのだろう。 いつか、妖怪にとっても人間にとっても、真に平和な日々が訪れ、心の底からこの世の春をひねもす謳い続ける日が来るまで。 おしまい
2ヶ月くらいかけてダラダラ書いたので、非常に間延びした駄作になりました。 |