花のいろ 毎日眠くて仕方がない。 春眠暁を覚えずなんて人間は言うらしいけれど、暁どころか、夕焼けだって覚束ない。 まだ夜は寒くて、妖怪たちも活発には動かないと見えて妖怪退治の依頼もほとんどないし、おかげで好きなだけ惰眠を貪られるからいけない。 毎日毎日寝てばかりいて、何日くらい経ったかな? 一週間は経っただろうか。 はじめのうちは、疲れているからと大目に見ていてくれた父さんも、あまりのぐうたらぶりに呆れて、昨日からアパートに遊びに行ったきり、帰ってこない。 さすがに、そろそろ動かないとまずいかな…。体にコケでも生えてきそうだ。 食料の残りも底をついてきたから、なにか探しに行こうか。 人間界まで下りなくても、春の野に出れば食べるものはいくらでも見つかる。 それにしても、ひたすら惰眠に溺れていたこの数日、だれもぼくの家を訪ねてくれなかったというのも連れない話だ。 まあ、おばばや児泣きは用事でもないと来ないけれど、猫娘はなにくれとなく世話を焼きに来たり、お土産を持ってきてくれたりするのに、ずっと姿を見せない。 猫娘のことだから、ようやく訪れた春が嬉しくて、毎日あちこち飛び回っているんだろう。 いつでだって誘ってくれれば、どこへでも付き合うのに。 外に出れば、辺りはすっかり霞が下りて、空もぼんやりした色になっている。 冬の透き通った空気が、いつのまにか春の埃に濁っている。 いたずらな春風は、次々に芽吹く草木の芽を撫で、ほころぶ花の花粉を運び、暖かく緩んだ土を舞い上げる。 この温もりと賑やかさと、冬の名残の凛とした厳しさを併せ持つ早春の風は、いつも猫娘を思い出させる。 くるくると良く動く眸、踵に羽根でも生えているみたいに軽やかな足取り、良く笑い、すぐ怒り、色んなことに驚いたり感動したり、まったく忙しくて賑やかだ。 かと思うと、誰も寄せ付けず、一人静かに思いに耽っていることもある。 真っ直ぐに気持ちをぶつけてくることもあれば、自ら一線を引いて退いてしまうこともある。 オンナゴコロと猫の目は変わりやすいっていうけれど、まったくそのとおりだ。 オンナゴコロと春の風、なんていうことわざも、いいかもしれない。こいつにはまったく翻弄されるって意味で。 そんな埒もないことを考えながら、森に近い草原を目指して歩く。 あそこに行けば、タンポポ、野蒜、土筆、よめ菜…食べるものはいくらでもありそうだ。 少し遠回りをして、桜の咲く道を辿っていこう。そろそろ見頃になっているはずだ。 色づき始めた雑木林の景色を眺めながらのんびり歩き、山桜が数本立ち並ぶ陽当たりの良い斜面に差し掛かったとき、桜の下に見覚えのある赤い色を見つけた。…猫娘だ。 どこにいても映える、ワンピースの赤い色。 胸がどきんと高鳴った。 思いがけない場所で彼女を見かけると、広大な砂漠の中に咲く一輪の花に不意に出会ったような、いつもそんな気持ちになる。 それにしても…、どうやら眠っているらしい。 無防備なやつだなぁ。 いくら慣れ親しんだ森の中だからといって、こんなところで熟睡するなんて、危なっかしくてしょうがない。 ここはひとつ、うんと驚かせてやろう。それからちょっとお説教だな。 女の子としてのたしなみを。 男のぼくが言うのもヘンだけれど。 五感の鋭い猫娘に気付かれないように、気配を殺し、足を忍ばせて近づく。 どうやって驚かせてやろう。いきなりくすぐってやろうか。わっと叫んでやろうか。 なんて考えながらすぐ近くまで寄って、何も気付かずに眠っている猫娘の顔を覗き込んだ。 途端に、思考が止まる―――。 きれい、だ。 風もないのに散り続ける桜花を、髪に、額に、指に、服の上に受けて、柔らかな寝息を立てていた。 見ているうちにも、ひらひらと落ちてきた一枚が、同じ色を宿した頬に重なる。 白い肌が桜色に映えて溶け合うようで…。 どちらが花か。 ぼんやりと、ただぼんやりと見入ってしまった。 見惚れてた…と言ったほうがいいかな。 絶え間なく降り続ける小さな花片は、それでも猫娘の体を埋め尽くすことはなく、いっそぼくの手で誰にも見えないところに隠してしまいたくなる。 ただ、この姿を見つけたのがぼくでよかったと、その幸運に感謝した。 触り、たい。 ほんの、少しだけ。 そんな衝動が頭をもたげた。 触れて、そしてどうしようというのか。 自分でもわからない。 だけどそれはもう止めようがなく、震える指を猫娘の頬に伸ばした。 その時、舞い落ちてきたひと片が、猫娘の頬を覆うぼくの手を掠め、薄紅の唇に、触れた。 花びらが、落ちただけだというのに。 刹那、ぼくは言いようのない憤りに駆られて、伸ばした手で思い切り、その花びらを振り払った。 「ふにゃっ!」 突然顔を叩かれて、猫娘が飛び起きた。 夢うつつの顔つきで、ぼくをまじまじと見つめる。 「あ…き、鬼太郎…。なんで…?」 ようやくぼくを認識すると、まさかぼくに顔を払われたとは思わないのか、きょとんとしたまま、半身を起こした。 はらはらと、体に積もった花片が零れる。 花が、生身の娘に戻った。 「たまたま、通りかかったら姿を見かけたんでね。こんなところで寝てちゃ危ないから、起こそうと思ったんだよ。」 なんて。驚かそうと思って忍び寄ったことや、しばらく見惚れてたことは内緒で。 それから、花びらに嫉妬して、思わず顔を払ってしまったことも。 「あれ? あたし、寝てたのかー。あんまり気持ちよかったから…。」 照れ隠しの笑顔。 まったく、無防備にも程がある。 「寝てたのかー、じゃないよ。女の子が戸外で熟睡するなんて、良くないぜ。ぼくがいつ来たかもわからなかっただろう。」 まあ、わからないように気配を消してきたんだけど、それは置いといて。 「うっ…。だって、春だもん。しょうがないじゃない。」 拗ねて唇を尖らせる。 こんな表情されると、もう強く言えないんだよな。 「気持ちはわかるけどさ、外で昼寝したきゃ、誰か誘って付き合ってもらいなよ。」 ぼくを誘って、とはさすがに図々しいから言わない。 「別に、お昼寝しに出たんじゃないよ。鬼太郎に会いに行くつもりだったんだよ。途中でちょっとここを通ってみたら、つい…ね。」 「え…ぼくに…?」 思いがけない言葉に、また胸が高鳴った。 「そうだよ。ほら見て。この先のはらっぱで、たくさん摘んできたんだよー。これで春のご馳走を一緒に食べようと思って。」 ちっとも気付かなかったが、猫娘の傍らには大きな篭が置いてあり、中には土筆、よもぎ、なずな、野蒜、よめ菜、タンポポ、すみれ、それから色とりどりの花…春の野の恵みが詰められて、桜の花びらに覆われていた。 「ぼくもそのはらっぱに行くところだったんだよ。もう食料も尽きてさ。ちょうどよかったよ。」 「そうだろうと思った。鬼太郎、ずーっと出てこなかったもんね。」 なんだ、ぼくが篭ってたことに気付いてたのか。 それなのに、訪ねてもくれなかったのはどういうことだろう。 「猫娘こそ、ずいぶんご無沙汰じゃないか。もう忘れられたと思ってたよ。」 つい、遠まわしに恨み言を口にする。 だけど猫娘は、そんな皮肉には気付かないのか、まっすぐな笑顔を向けた。 「だってぇ、いつ春を感じるかは人それぞれだから、無理に起こしちゃ悪いかなーと思ったんだよ。」 「なんだよ、それ。ぼくは別に、冬眠してたわけじゃない。」 「そりゃそうだけど、疲れてるんだろうなって思ってさ。元気になったら、きっと出てくるだろうって待ってたんだけど、もう待ちきれなくなっちゃって、会いに行くところだったんだよ。お腹も空かせてるかなって、心配だったし。」 うわ、可愛いことを言う。 そういうセリフがぼくをどれだけ悩ませているか、気付いていないんだろうか。 「鬼太郎は、びりっけつだね。」 急に猫娘の声が掛かる。いつも唐突に話題を振るんだよな…。 「え? なにが?」 「春を感じて目を覚ます順番。最初が雪割草で、節分草、蕗のとう、菜の花と梅が続いて、次が沈丁花だったかな? もう小鳥も戻ってきたし、木もほとんど芽吹いたし、花もみんな咲いちゃったし、まだ起きてないのは鬼太郎と蛙くらいだよ。」 「か、蛙と一緒にしないでくれよ…。」 といいつつ、ぐうたら寝てばかりいたことは否定できない。 「そういう猫娘は、なにしてたんだよ。」 「あたしは、冬から春に変わる季節が大好きだから、ずーっと外でその移り変わりを見てたんだよ。最初に空の色が変わって、土の匂いが変わって、みんな順番に目が覚めるのを、一つでも見逃したらもったいなくて。」 …そうだ。忘れるところだった。 毎日雲を眺めて、風が運んでくる季節を誰よりも早く感じ取る、そんな日々が、ぼくにもあった。 このところ、戦い続きの日々に疲れて、そんなことを感じる余裕も無くしかけていた。 忙しさに負けて心を無くし、大切なことを忘れてしまったら、ぼくが憂えている人間と同じ道を辿ってしまう。 春眠に溺れるのもいいけれど、自然の動きを感じるアンテナを、鈍らせてはいけない。 「そうか…。ぼくはすっかり寝坊してしまったな。色んなものを、見逃した。」 思わず漏れた呟きに、猫娘は敏感に反応した。 「…ごめんね。もっと早く、起こしに行けばよかったんだね…。」 ほんの一瞬、表情を曇らせたかと思うとすぐに晴れ、 「でも、まだまだ春は続くよ。山吹はこれから見頃だし、鮎だって燕だってこれから来るよ。」 そう言ってぱちんと一つ、手を叩くと、目を輝かせてこっちを向いた。 「そうだ! 今度、あたしが案内するよ。あたしが見つけた春を紹介するの。暖かくなって妖怪シーズンが来る前に、いつも一番がんばってる鬼太郎に、思いっきり心の洗濯してもらうの。題して、“ゲゲゲの森春満喫日帰りツアー”!」 また唐突に…。なんだよ、春満喫日帰りツアーって…。 春を満喫するのは、なにも特別なことじゃない。気付くか気付かないかの違いで、どこにいたって感じることはできる。 山にも里にも、海辺にも、コンクリート・ジャングルにも春は来る。 それを感じるアンテナさえ磨いていれば、どこでも満喫できるのだ。 だけど、思いついた計画にすっかり乗り気であれこれ考えている猫娘に、水を差すのも悪い。 それに、ぼくも猫娘と一緒に春の一日を過ごすのは大歓迎だ。 日帰りと言わず、2,3泊したっていいくらいだけど。 「うん、いいね。ぜひお願いするよ。」 笑顔で返せば、猫娘も嬉しそうに笑う。 「よーし、決まり! さっそくコースを考えとくね。」 そう言って立ち上がり、傍らの篭を手に持った。 「さて、そろそろ行こうよ、鬼太郎のおうちに。野草が萎れないうちにお料理しなくちゃ!」 「じゃ、一緒に行こうか。」 ぼくもゆっくり立ち上がると、猫娘から篭を受け取り、手を繋いだ。 「メニューはねぇ、土筆の卵とじでしょー、金平でしょー、よめ菜ご飯でしょー、あとは天ぷらにおひたしに胡麻和えに…」 指折り考える猫娘を見ながら、思わず口元が緩む。 久しぶりの猫娘の手料理だ。 しかも、父さんは留守だし。 ふ…ふたりきりだ! そう思ったとき、猫娘がぼくの方をちらりと見て言った。 「それで、後からおばばたちが親父さんを連れてくることになってるから、それからみんなで春の野草パーティだよv」 ……………………。 まあ、そんなところだろうと予想はしていたんだ。 二人で食べるには、この野草は多すぎる。 一緒に支度できるだけでも、幸せとするか…。 小さな吐息を一つ漏らし、猫娘を見た。 髪に、桜の花びらがついている。 それを、今度はそっと払った。 猫娘の髪に、唇に、躊躇なく触れられる花片にさえ、苛立ちを感じる自分が滑稽だ。 さっきはまるで、猫娘の唇を奪われたみたいで胸が詰まったのだから。 猫娘は、ふたりきりより、みんなと一緒のほうがいいのかな。 声にできない問いを繰り返す。 振り返れば、桜はそんなぼくの心など気にも留めずに、ただはらはらと、その身を散らしていた。 おしまい
桜のネタで一本書きたかったので、すでに時を逸していますが、無理やり書き上げました。 |