かじけ猫 住み慣れた樹上の家の中から、ぱたぱたという軽い足音や楽しそうな鼻歌が聞える。 濡れ縁には木の葉布団やわずかばかりの蔵書、湿気た座布団などがところ狭しと並べられて、日を浴びている。 ところでぼくは、穏やかな昼寝日和だというのに家から追い出され、梯子の下で三本目の煙草をくゆらしている。 いや、正確に言えば追い出されたのではなく、自分から逃げてきたんだけれど…。 ぼくと父さんの憩いの場である我が家は、今や猫娘の独擅場となっていた。 ことの始まりは昼近く、三角巾と前掛けという出で立ちで現れた猫娘が、我が家のすす払いをすると言い出した。 たいした造りの家じゃないけれど、父さんとふたりで生活をするのに不自由のないくらいには清潔にしているし、ものも少ないし、大掃除が必要なほど汚していないつもりだ。 家の中で煮炊きをするから多少は煤も溜まっているけれど、それも木組みの簡素な家に趣を与える程度だ。 だけど、そんなことは必要ない、と断ったところで聞く相手ではなく、 「妖怪だって、ちゃんとお家をきれいにして、お正月には歳神様をお迎えしなきゃ。いざって言う時に、助けてもらえないわよ。」 なんて柄にもなく信心深いことを言いながら、さっさと台所を片付け始めた。 布団に入って本を読んでいたぼくや父さんにも次々に指令が飛び、はたき掛けやら雑巾掛けやら水汲みやらをする羽目になった。 それでも、きれいだと思っていた我が家も叩けば埃は出るもので、意外に多くのゴミが出来た。 不燃物、なんて洒落たゴミはないので、全部下で燃やしてこようという口実を作って、なんとかあの場から逃げ出してきた、というわけだ。 父さんはまだ小さな雑巾であちこち水拭きしていたようだけれど、この際だ、尊い犠牲となってもらおう…。 猫娘が家に来てくれることはいつでも大歓迎だし、世話好きで腰が軽いところもとても好ましく思っている。 でも、時々お節介が過ぎるのが玉に瑕だ。 そんな時には、当たらず触らず逃げるのが一番だと、経験上悟っている。 ゴミを燃やすつもりで持ち出したマッチの火を、そのまま煙草につけて、いつの間にか三本目。 労働の後の一服は実にうまい。 これで最後にするつもりで大きく吸い込んだ一口を、未練たらしく吐き出しながら良く晴れた空を見上げた時、頭上から棘のある声が掛かった。 「ちょっと鬼太郎、なにさぼってんのよ!」 あ、ばれてしまった。さすがに三本は吸い過ぎだったか。 「いやぁ、ちょっと一服を…。猫娘もずっと働きづめで疲れたろう。一本どうだい?」 あわよくば仲間に引き込もうと新しい煙草を差し出したが、これが逆効果だったようだ。 ぷうっと頬を膨らますと、きれいなつり目をきゅっと細めて更に語気を強めた。 「結構です! あたしはもうずーっと前に煙草なんて美容に悪いもの、やめたんだから!」 なんだ、やめてたのか。猫娘が紫煙をくゆらす姿も、なかなかいかしたのにな。 「だいたい、そんなのいつまでも吸ってるから、家の中にもヤニがついちゃうんじゃないの! あれ、落とすの大変なんだからね!」 「あ、そうなんだ…。そりゃ、どうも。」 なんとなく申し訳ないような気がしてそう言ったけど、喫煙なんて個人の自由じゃないか! 人間社会では禁煙運動が盛んになったり増税が重なったりで、ますます喫煙者の肩身が狭くなっているようだけれど、妖怪たるものそんなことで嗜好の自由を奪われるわけにはいかない。 多少のヤニくらい、この一服で得られる恍惚感には替え難いんだ。 と、勢い余って、猫娘にあげるつもりで取り出した一本に火をつけてしまった。 しまった、と思って恐る恐る猫娘を見上げると、冷ややかな視線を投げ、 「それで最後にしてよね。」 とだけ言い、また家の中に引っ込んだ。 助かった。これで心置きなく後一本吸える。 とは言っても、猫娘のご機嫌を損ねたままじゃなにかと具合が悪い。 なんとか、このサボタージュを帳消しにするだけのことをしなくちゃ。 そうだ、いい考えがある。風呂を沸かそう。 せっかく火を焚くのだし、ついでに風呂を沸かせば、掃除が終って汚れた体をすぐに洗える。 普段は風呂なんてなかなか入れず、盥(たらい)に湯を張って体を拭うのがせいぜいだから、きっと喜んでくれるだろう。 そう思って、風呂用のドラム缶を転がしてきて水を張り、火をおこした。 それから30分後。 ちょうどいいお湯加減になった頃、タイミングよく猫娘が出てきた。 さっきと違って、晴れやかな声がかかる。 「ふ〜、終った。すっごくきれいになったよ、鬼太郎!」 「…まったく、結局わし一人に手伝わせおって。」 父さんの不満そうな声も聞えた。 ご機嫌斜めなのも、もっともだけど…。 ぼくは火の世話をしながら、振り向かずに言った。 「お疲れ様。丁度いいタイミングだよ。お風呂を沸かしたんだ。」 「わあっ! さすが鬼太郎、気が利くぅ。」 思惑通り、とても嬉しそうに言いながら、足取りも軽く梯子を降りてくる。 どうやら、先ほどの件は帳消しに出来そうだ。 「父さんも、たまには大きなお風呂にゆっくり浸かったらどうですか。」 もう一人、ご機嫌をとらなければならない相手にも声をかけた。 「ふむ。たまにはこういう風呂もいいかのう。」 こちらも風呂好きとあって、すぐに機嫌を直してくれた。 ふたりがぼくのすぐ隣に来てお風呂を覗き込んだとき、ぼくは初めて猫娘のほうを見た。 「ぷーっ。あはははっ。なんて格好してるんだよ!」 思わず吹き出してしまった。 猫娘ったら、頭から脚の先まで煤だらけなんだもの。 鼻の頭なんて、絵に描いたように黒く煤けている。 「なに? そんなに酷い?」 顔を赤くして手で擦った。 でも、擦れば擦るほど、汚れが酷くなる。 それを見て、ぼくがますます笑うので、猫娘は少しむくれた。 「なによ、そんなに笑わなくたっていいじゃない!」 ぼくは必死で笑いを抑えながら、 「だってさ、まるで『かじけ猫』なんだもの。」 つい、要らぬことを言ってしまった。 「なっ、なんですってぇ!!」 猫娘は半分猫化して怒ると、ぷいと横を向いてしまった。 ああ、失敗した。せっかくご機嫌が直ったところなのに。 「鬼太郎、いくらなんでもそりゃ失礼じゃぞ。」 父さんも呆れたように言った。 かじけ猫っていうのは、灰猫とかかまど猫とか炬燵猫とも言われる。 冬に、寒さを凌ぐために竃や炬燵に入って、煤や灰にまみれたりヒゲが焦げたりして汚れた猫のことだ。 有名なところでは、宮沢賢治の『猫の事務所』に出てくる竃猫がいる。 最近では、どの家もヒーターや電気炬燵で暖かいし、竃も掘り炬燵もないからめったにお目にかからなくなったけれど。 どちらにしても、あまり良い印象の言葉ではないんだろう。 ぼくとしては、そういう猫って可愛らしいと思うから、好意的なつもりで言ったんだけれど…。 「ごめん、猫娘。悪気はなかったんだよ。」 「しらないもんっ!」 「気に障ったのなら謝るよ。でもぼくは、かじけ猫ってかわいいと思ってるよ。」 それを聞くと、猫娘は横を向いたまま視線だけをぼくに向け、意外そうな顔をした。 「だってさ、生きるために必死で、体が汚れるのも構わずに温かいところへと向かうわけだろう。そういうのって、いじらしくてかわいいと思うんだ。」 「そうなのよ! 鬼太郎もわかる? その猫の逞しさっていうか、生きる力みたいなの!」 我が意を得たり、とばかりに俄然勢いよく、猫娘はぼくに向き直った。 「それなのにさ、人間ったらかじけ猫とか灰猫とか『結構毛だらけ猫灰だらけ』とか、勝手なこと言っちゃって…」 自分の顔の汚れも忘れて、猫たちへの義憤に燃える猫娘をなだめるように、横から父さんが言った。 「まあ、そう怒るでない。おそらく人間達も、猫に愛情を込めてそんな言葉を作ったんじゃよ。でなけりゃ、俳句に詠んだり物語の主人公にしたりせんわい。」 「え? そうかな…。」 「そうだよ。ぼくだって、そんなに汚れるほど一生懸命、掃除してくれた猫娘が…、えーと、そのう…」 話の流れ上、“かわいくて”と言いそうになり、さすがに恥ずかしくて口篭もった。 「嬉しくてさ、つい、そんな風に言っちゃったんだよ。まあ、お風呂に入ってさっぱりしてよ。」 話を逸らすためにお風呂を勧めると、猫娘はまた、嬉しそうに笑ってくれた。 「うん! じゃあ、着替えと手ぬぐい持ってくる。親父さんと鬼太郎、先に入ってて。」 言い終わらないうちに、妖怪アパートに向かって走り出した。 「あ、ちょっと、猫娘…」 行っちゃった。一番風呂に入ってもらおうと思ったのに。 でも、着替えは必要だもんな。ちっとも考えてなかった。 「おい鬼太郎、いい湯加減じゃぞ。早速入ろう。お前が一緒じゃなきゃ、わしは溺れてしまうんじゃから。」 父さんはすでに入る気満々だ。 仕方ない。さぼってばかりいたのに気が引けるけれど、一番風呂を頂くとするか。 手ぬぐいを取りに家に戻れば、部屋の中は隅々まできちんと片付けられ、煤も落ちて家中が明るくなっていた。 汚れるのも厭わず高い梁にもよじ登って、煤だらけになって磨く猫娘の姿が目に浮かび、思わず口元が緩んだ。 普段は感じていなかったけれど、こうしてみると結構汚れていたんだな。 日を浴びてふっくらと膨らんだ木の葉布団は畳まれ、傍らには読みさしの本がきちんと置かれてる。 せっかくの読書を中断させられ、家中をばたばたやられたときには参ったけれど、清潔な部屋は思ったよりずっと快適だ。 空気までもがおいしく感じられる。 もしも、猫娘と一緒に生活するとしたら、こんな慌しくも穏やかな、賑やかにして和やかな毎日になるのかな…。 「お〜い、鬼太郎。手ぬぐいはまだか。早う入ろう!」 つい思いに耽っていると、下からじれったそうな声が聞えた。 「はーい、父さん。今行きます。」 きちんと整理された行李から手ぬぐいや石鹸を取り出し、部屋を出た。 なんだか今日は、もう少し、猫娘と一緒に過ごしたい。 ゆっくりと梯子を下りながら、今夜の夕ご飯にも猫娘を誘おうか、と考えていた。 おしまい
いよいよ今年も残りわずか…となってから、ようやくの大掃除ネタUPとなりました。遅いって;;; |