薄が原 なんてきれいな夜なんだろう。 空はどこまでも透き通っていて、無数の星に手を伸ばせば、すいこまれてしまいそう。 目の前一面に広がる薄の穂は、かすかな星明かりに白くぼんやり光って、天上の雲かと思うほど。 まばらに聞こえる虫の音が、冷たい夜気に響いてる。 ここは、薄が原。ゲゲゲの森の西の果て、人間界との境界の荒れ野原。 森が開けたところから途方もなく広がる大地は、秋になると薄に覆われる。 あたしは、その真ん中にある大きな岩の上に佇んでいた。 ここからなら、背の高い薄を見下ろして、遠くまで見渡せるから。 もうどれくらい、こうしているのかな…。 自分でも、どうしてこんなことをしてるのか、わからない。 ただなんとなく落ち着かなくて、気付くとここに来ていた。 「明日には帰るよ。」 昨日、一反木綿に乗って発つ時に、にこやかに言った笑顔を疑っているわけじゃない。 鬼太郎の強さも良く知ってる。 しかも今回の相手は悪戯好きの小だぬきで、悪戯を諌めに行っただけだから、心配なんてないはず。 鬼太郎なら大丈夫。いつだって信じてる。 だけど、それとは別のぼんやりした不安が、霧みたいに心を覆ってる…。 いつもいつも、心の底に淀んで消えない凝り。 鬼太郎が、ゲゲゲの森を出てどこかへ行ってしまうんじゃないかという、漠然とした予感…。 その予感に根拠なんてないけど、鬼太郎は自由な妖怪だもの。 幼い頃はずっと、放浪の生活を続けていたというし。 ゲゲゲの森に辿り着いてからだって、昔はよく、ふらりといなくなってた。 一つ処に落ち着いたのなんて、ほんの最近のこと。 いつまでもここに腰を据えている保証なんて、どこにもない。 でも、そんな風に誰にも縛られない、どこにも属さない鬼太郎が、あたし大好きなんだもの。 待つだけの女になるなんて嫌だけど、でも、鬼太郎をここに引き留めることは出来ない。 後を追う事も…出来ない。鬼太郎の自由を、奪いたくないから。 それに、あたしも気ままな猫妖怪だから、一人になりたい気持ちも、ふっと風に誘われちゃう気持ちも良くわかるんだ。 だったら…、待つしかないじゃない…。 鬼太郎が森を出て行くたびに、もしかしたらもう戻ってこないんじゃないかという思いが、頭を掠める。 だから、いつも精一杯の笑顔で見送るんだ。 「いってらっしゃい、鬼太郎」って。 それが永いお別れになっても悔いのないように。 帰ってきたら、とびっきりの笑顔で言うんだ。 「おかえり、鬼太郎」って。 戻ってきたことが嬉しくて嬉しくて…。 それにしても、遅いよ。 昨日のお昼過ぎに出掛けて、「明日帰るよ」って言ってたんだもん、今日中に帰ってくるはずよね。 だけど、朝起きても、お昼を過ぎても、ちっとも帰ってこない。 夕日が辺りを真っ赤に染めた頃、あたしは耐え切れなくなって、この薄が原に走ってきたんだ。 太陽を追って、この森の西の果てに。 だけどとっくに日も暮れて、さっき出てきた月もずいぶん高くなった。 今宵は臥し待ちの月。 寝て待つくらいに遅く出てくる月なのに。 それより遅いなんて、鬼太郎、ちょっとのんびりすぎだよ。 今日が終っちゃったら、鬼太郎は嘘つきになっちゃうんだからね…。 腹立ち紛れに、なんの関係もない月をキッと睨みつけてやった時、一陣の風が薄が原を吹き抜けた。 「うわぁ…。」 突然、野原いっぱいに小さな白い何かが舞い上がった。 夜空に向かって、ふわり。ふわり。 急な風に乗って、薄の穂から一斉に種が飛んだんだ。 無数に散らばったそれは幻想的な月の光を帯びて、まるでふわふわと踊る妖精みたい…。 「きれい…。」 しばらく見惚れてしまった。 薄なんて、やたらにぼうぼう生えちゃって、葉っぱは痛いし、たくましいばっかりだと思ってた。 だけど、しっかりと地に根を張った薄でさえ、こうして種を風に飛ばして、自由に森を出て行くんだね…。 ふわふわと…嬉しそうに…。 あ…れ、いけない。 なんか、泣きそう。 どうして今日は、こんなに感傷的なんだろう。 泣いたら、止まらなくなりそう。 だから、涙が零れないように、瞼に力を入れて空を仰いだ。 その時、見上げた星空の奥に、キラリと何か、光って消えた。 何度か瞬きをして、もう一度目を凝らす。 今度ははっきり見えた。 風に揺れ、時々月光を反射して白く光りながら近づいてくる、細長い…、あれは…。 一反木綿だ! 急に心臓がドキドキしてきた。 なんだか胸がつまっちゃいそう。 一反木綿が帰ってきた! そして、一反木綿の上の見慣れた人影…。 帰ってきた…。やっぱり帰ってきてくれた。 「鬼太…」 思わず呼びかけそうになって口をつぐみ、揚げかけた手を下ろした。 声を掛けないでおこう。 きっと、鬼太郎も一反木綿も疲れてる。 早く帰って休みたいよね。 それに、鬼太郎も一反木綿も親父さんも心配性だから、あたしがこんなところにいるって知ったら、きっとすごく心配させちゃうもの。 そっと見送ることにして、薄の陰に身を隠した。 それなのに、一反木綿は、まっすぐあたしの方に向かってくる。 ど、どうして? 「おーい、猫娘ど〜ん。」 「猫娘ー!」 手なんか振っちゃって、しっかりバレていたみたい。 ああ、そういえば、鬼太郎は妖気で相手の居場所がわかるんだっけ…。 目の前でふわりと止まった一反木綿から、鬼太郎がぴょんっと飛び降りあたしの正面に立った。 「ただいま。猫娘」 ど…どうして、あたしがあんなに、胸が潰れそうなほど待ち焦がれていた言葉を、そんなに簡単に、無邪気に言っちゃうの? すぐには答えられず、ただ鬼太郎を見つめるのが精一杯のあたしを見て、鬼太郎が不思議そうに首を傾げた。 「猫娘…? どうしたの?」 あーもう、そんな小犬みたいな目で見られたら、思わず抱きしめたくなっちゃうじゃない! 帰ってきてくれて、それだけで泣きそうなくらいに嬉しいのに…。 さっきから高鳴りっぱなしの胸を落ち着かせるために、深呼吸を一つすると、やっと心からの笑顔になれた。 「おかえり、鬼太郎。」 それを聞くと鬼太郎は、ほっとしたような、嬉しそうな顔をした。 でも次の瞬間、急に真顔になって、あたしの手を握った。 鬼太郎の手はいつも冷たいけれど、それを温かく感じるくらいに、あたしの手は冷えきっていた。 「ほら、やっぱりこんなに冷たい…。ずいぶん長い間、ここにいたんだろう。」 「え…べつに、そんなに長い間じゃないわよ。ちょっと散歩に来ただけだもん…。」 我ながら下手な嘘だよね…。 鬼太郎はなんでも見透かしてしまうような真っ直ぐな目で、あたしの目を見続けてる。 耐え切れず、つい目を逸らしながら口を開いた。 「う…、えっと、ゆ、夕方から…。」 あたしのバカバカ! どうして、こういうときに上手に誤魔化せないんだろう。 鬼太郎は、めっと子供を叱るような顔になって、あたしの両肩にポンと手を置くと、 「ここは、どんな人間や妖怪が迷い込んでくるかわからないし、なにかあったって、なかなか気付いてもらえないんだ。一人で来ちゃ危ないじゃないか!」 と、強い口調で言った。 すぐにあたしのこと、子供扱いするんだから! 「だっ…だって…!」 むっとして、何か言い返そうと鬼太郎を睨み返すと、あたしの肩を掴む手に力が入り、思いの外真剣な眼差しを返された。 「あまり、心配させないでくれよ…。」 その優しい口調と眼差しが照れくさくて、あたしは顔が熱ーくなって、まともに目を合わせられない。 思わず俯いて、やっとのことで、一言弁明した。 「あ…あたしだって、心配してたんだ…から…。」 それで全てを納得したのか、鬼太郎はあたしから手を離すと、 「そうだったのか。ありがとう。」 嬉しそうに笑った。 「コホン…えー、そろそろいいかのう?」 「おいどんも、早く帰りたいでごわす。」 はっとして見れば、すぐ隣で一反木綿と親父さんが所在無さげに揺れていた。 「あっ、すみません。すぐに帰りますよ。」 鬼太郎が、二人の方に向き直ると、 「あぁいや、お前は猫娘を送ってやるといい。わしは、一反木綿と一足先に帰っておる。」 「そういうこと。じゃ、鬼太郎どん、ごゆっくり〜。」 「こりゃ、一反木綿、下世話なことを言うんじゃない!」 なんてことを言いながら、あっという間に二人で飛び去ってしまった。 その後姿をしばらくぽかんと眺めてから、鬼太郎がふふっと笑って言った。 「置いていかれちゃったね。」 「うん…。変なの、親父さんも一反木綿も。乗せてってくれればいいのに…。」 あ、でも、一反木綿、疲れていたのかもしれないな。 二人乗ったら、重いもんね。 「さ、のんびり帰ろうか。アパートまで送るよ。」 「ありがと…。鬼太郎も疲れてるのに、ごめんね。」 「ちっとも疲れてなんかいないよ。疲れてるのは、一反木綿の方さ。…あ、葉で手や足を切らないように気をつけて。」 取り留めのない言葉を交わしながら、背よりも高く茂った薄を分けて、歩き出す。 前を進む背中を見ていたら、一緒にいるんだっていう実感が湧いて、嬉しくて、自然に顔がにやけちゃう。 黙って後を歩くうち、不意に、独り言みたいに鬼太郎が呟いた。 「いつだって、ここに帰ってくるために、ぼくはここから出ていくんだよ。」 どういう意味かな? 考え込んでると、鬼太郎はあたしを振り返り、にっこり笑って付け足した。 「帰る場所があるって、幸せだよね。やっとぼくにも、そういう場所が出来たんだ。」 包み込むような、あったかい笑顔。 つまりは、あたしの不安の原因に気がついて、それに応えてくれたんだ。 あーあ、やっぱり鬼太郎には、全部見透かされちゃうんだ。悔しいけど。 「本当は、いつも一緒に出掛けて、一緒に帰ってこられればいいんだけど…。」 やっと聞こえるくらいの小声で早口にそう言うと、鬼太郎は赤くなって、ぷいっと前に向き直って歩き出した。 いつも一緒に…。 そうだね。そうできれば、一番いいね。 そうはいっても、自由を愛する妖怪同士。 お互いに相手の知らない世界も持ってる。 だけどいつだって心の中は鬼太郎でいっぱい。 どこにいたって心は、ゲゲゲの森を向いている。 ここはあたしにとっても、ただ一つの帰る場所だから…。 「ね、鬼太郎。あたしも、いつでもここに帰ってくるよ。鬼太郎と、同じ場所に…。」 その言葉に、鬼太郎は足を止めた。 「うん…。そうかぁ、そうだよね。」 少ししてから、小さな声で、でも力強くそう答えた。 会いたくなったら、いつだって会える。 どんなに遠くに離れても、どんなに長い間会えなくても、きっとここで、また会える。 ここは、二人が帰ってくる場所だから。 おしまい
はじめて猫ちゃんの口語体に挑戦してみました。口語体、むずい…;;;;;;。 |