秋の風 風に煽られ、出しっぱなしのガラスの風鈴が渇いた音を立てた。 砂かけ婆の暮らす殺風景な部屋に吹き込んだ風は、そこに立ち込める薬草の匂いを揺らし、鼻のいい猫娘は思わず顔を顰めた。 「いっ…痛いよ、おばば。もうちょっと優しくしてよ〜。」 「な〜に言っておるんじゃ。今まで辛抱出来て、急に出来なくなる道理もあるまい。まったく…。」 ぶつぶつ小言を言いながら、砂かけ婆は、猫娘の剥き出しの背中に薬草を貼り付けた。 「そんなこと言ったって〜、この薬草、すごい染みるんだもん…。」 「良く効く薬ほど、苦痛を伴うものじゃ。治療が嫌なら、もっと自分の身を大切にすることじゃな!」 一際手荒に、ぺちんと最後の薬草を貼り付けると、悲鳴をあげて飛び上がったねこ娘の半身を起こさせ、今度は晒しできつく巻き始めた。 「さて、これでひとまず終わりじゃ。しかし、ずいぶん深い傷じゃから、様子を見ながら毎日薬草を変えるぞ。」 「ありがとう、おばば…。だいぶ楽になったよ。」 屈託なく笑う猫娘に、敢えて鋭い一瞥をくれると、 「礼などいらんわ。わしが勝手にやったことじゃからな!」 口調を荒げて叱るように言った。 「わしが気づいて、部屋に呼び出さなければ、おぬしはその傷を隠したまま、一人でどうにかしようと思ったんじゃろう。」 「だ…だって…、怪我なんていつも、みんなしてるじゃない。こんな傷、いつも鬼太郎が負ってる傷に比べたら…。」 「だったらなぜ、隠したりしたんじゃ! 大体、鬼太郎とおぬしでは、妖力も回復力も違う。比べること自体がおかしいわい。」 「別に、隠したわけじゃ…」 そう言いかけたところで、再び砂かけの大きな目にギロリと睨まれ、嘘のつけない猫娘はしおしおと項垂れた。 「ご…ごめんなさい…。」 砂かけは、大きな溜息をつくと、ねこ娘の正面に座ってお説教を始めた。 「よいか、おぬしは若い娘なんじゃから、もっと自分を大切にしなきゃいかん。 妖怪の体が再生能力に優れているとはいえ、限界もあるんじゃぞ。 鬼太郎ほどの妖力の持ち主でも、失った左眼は回復せんじゃろう。こんなに深い傷を放っておいて、もし跡でも残ったら……」 くどくどと続くお小言を、猫娘は俯いたまま聞いていた。そして、油断した自分の不甲斐なさを悔やんだ。 今回の戦いは、仲間たち総出の激しいものだった。 相手は、深山から降りてきて村を荒らしていた「わいら」の夫婦。 膨大な産業廃棄物の不法投棄で山を荒らされ、人間に復讐に来たのだ。 例によってなだめようとした鬼太郎の説得も聞かず、雄のわいらが暴れだしたうえに山に住む動物達まで襲い掛かってきたので、総力戦となった。 しかし、雌のわいらはなぜか、戦いに参加しない。少し離れたところで、じっと戦況を見守っていた。 そこで鬼太郎陣営も、この雌には手を出さず、鬼太郎は最も強敵である雄のわいらと戦い、仲間たちは荒れ狂う動物達を鎮めることとなった。 この時、いつものように鬼太郎が、「父さんを頼む」と、猫娘に目玉の親父を預けた。 だから、大切な目玉の親父を危険に晒さないように、猫娘は専守防衛に徹していた。 他の仲間たちの攻撃をかいくぐってくる獣たちを、得意の引っ掻きでやり過ごしながら、猫娘は目の前の戦況に神経を集中させていた。 背後から、この小さな親父と娘が鬼太郎の弱点であると見て取った雌のわいらが、気配を殺しながら近づいてくることに気づかなかったのだ。 雌のわいらが高々と前足を掲げ、太く大きな爪を振り下ろす瞬間、放たれた殺意に気づいた猫娘は、振り向きざま、横に飛び退った。 しかし、狙いは逸れたものの、爪の鋭い突端は猫娘の背中に深く食い込み、引き裂いた。 「うあああっ!」 猫娘の叫び声に、あらかた動物達を伸してしまった仲間たちが振り返った。 「猫娘! 大丈夫か?」 鬼太郎も、猫娘を振り返り声を掛けた。その一瞬の隙をついて、わいらの爪が鬼太郎の腕を掠めた。 「つっ…!」 「鬼太郎!」 自分の油断から、鬼太郎に隙を作ってしまったと思った猫娘は、立ち上がって必死に叫んだ。 「こっちは大丈夫! それより鬼太郎、そいつの爪に気をつけて!」 気丈にも微笑みかけた猫娘の笑顔に頷くと、鬼太郎は再びわいらと向かい合った。 「イテテ…、おい猫娘、本当に大丈夫じゃったのか?」 手のひらに包んで守っていた目玉の親父は無傷で、猫娘が受けた傷にも気付いていないようだ。 猫娘は、ほっと安堵の溜息をつくと、「平気だよ」と答えた。 その間に、他の仲間たちは雌のわいらを追い詰めていた。そして、総攻撃をしかけようとした、その時である。 「うおおおおおーっ! やめてくれ! 頼む、そいつには手を出さないでくれぇ!」 突然、大声で喚きながら、雄のわいらが転げるように走り寄ってきた。 「そいつは、わしの子を身篭っているんだ! 頼む、そいつだけは助けてやってくれ!頼む…」 すべてを投げ出すように額づいて懇願するわいらを見て、みんなは戸惑いつつ、「どうするんじゃ、鬼太郎」と、口々に言った。 鬼太郎が静かにわいらに歩み寄る。 猫娘は、近づいてきた鬼太郎に背中の傷を知られないよう後ずさると、目玉の親父を乗せた両手を、そっと差し出した。 親父は、そこからぴょんと鬼太郎の肩に飛び移ると、髪を伝っていつもの定位置に納まった。 これで大切な責任は果たしたと、ほっとしたと同時に、急に傷が痛み出した。 そっと手で触れると、背中が血で濡れている。 猫娘は、わいら夫婦の身の上話に聞き入っている仲間たちから離れて木陰に潜むと、スリップの裾を裂いて手早く背中に巻きつけ、きつく縛って血止めをした。 それから、ふらつく足を気力で立たせて、仲間たちの輪の端っこに加わった。 結局、わいらや動物達の暴走も、元を質せば人間のせいだということが分かり、鬼太郎が村人を説得して厳重にゴミの不法投棄を取り締まってもらうことになった。 さらに村をあげて、わいらの住む山を守ると約束を交わした。 それから、動物達と一緒に、わいらと身重の妻を山まで送ると、秋の山の幸をたくさんお土産にもらい、鬼太郎たちは家路についた。 その間も、終始みんなより一歩下がって背中を隠しながら元気に振舞っていた猫娘の傷には、誰も気付かなかった。 別れ際、わいらの妻が隣にいたおばばに、 「あの女の子の背中をひどく引っ掻いてしまった…。気丈に振舞っているけれど、傷は深いはずだから、看てあげてくださいね。」 と打ち明けなければ、おばばも気付かなかっただろう。 「おぬしのことじゃから、大方、みんなに迷惑をかけたくないなどと、いらぬ気を遣ったんじゃろう。」 「…あたし…鬼太郎にだけは、知られたくなかったんだもん…。」 「うん? なぜじゃ? あやつとて、お前を心配しておるはずじゃぞ。」 「だって…鬼太郎は、いつもあたしに大切な親父さんを預けてくれるでしょう。」 「そうじゃな。おぬしがいないときは、わしが預かるがな。」 「だから、親父さんだけはどんなことがあっても守りたいの。あたしも大好きな親父さんを。 なのにこんなヘマしたなんてわかったら、その信頼をなくしちゃうかもしれないじゃない。」 そう言うと口を結び、不安そうに眉を寄せて俯いた。 鬼太郎が目玉の親父を猫娘に預けるのは、親父を守るというよりも、そうすることで猫娘を危険から遠ざけたいから、 つまり、猫娘を守りたいから親父を預けるのだと、砂かけは見ている。 そんな鬼太郎の思いも知らず、猫娘はその信頼を失うまいと、必死なのだ。 猫娘は、一反木綿のように飛ぶことも出来ないし、武器は爪と牙と敏捷性だけで、児啼きのような硬い体やぬりかべのような大きな体もない。 目玉の親父や砂かけのような知識や知恵も持たない。 正直に言って、戦闘では一番活躍の場が少ない。 その中で、鬼太郎に託された目玉親父を守りきることが、自分の最大の使命だと思っているのだろう。 猫娘の不安に気付いた砂かけは、ふっと優しい笑みを浮かべた。 「以前のわしと同じじゃな…。」 「え…?」 「わしもな、昔は一人で森の奥で暮らしておって、ときどき人間に砂をかけて驚くのを楽しむ、おろかな妖怪じゃった。 しかしやがて、その人間達に住処を追われ、受け入れられなくなってのう…。」 「う…うん。」 「いつも居場所を探しておった。生きる意味を見つけたかったんじゃ。」 「今のあたしと、同じ…。」 「じゃが、どこにもなくてのう…。もう用無しなのかもしれんと、消滅さえ考えたものじゃ。」 「消滅!?」 強くしたたかな女性である砂かけの口から思いがけず出た言葉は、ねこ娘には少なからぬ衝撃だった。 「そんな頃に、親父どのと鬼太郎に出会ったのじゃ。」 「そうだったの…。」 砂かけは久しぶりに語る過去を、懐かしむように目を伏せた。。 「初めはな、いけすかんやつらだと思ったんじゃ。なにせ、わしから住処を奪った人間の味方をするんじゃからな。」 それはそうだ。人間を守るために同じ妖怪をやっつけるなんて、猫娘だって初めて聞いた時には驚いたものだ。 「しかし、その真剣な姿を見るうちに、あやつらの言うことがわかってきた。わしら妖怪のほとんどは、人間がいなくては存在できないんじゃ。」 「あたしだってそうだよ。人間の町の中で生まれて、半分は人間達に育てられたようなものだもん。酷い仕打ちも受けたけど…。」 「わしら人型の妖怪はもちろん、一反木綿や傘化けも、付喪神の類も、もとは人間の作ったものじゃから、決して断てぬしがらみがある。」 あかなめや座敷童子など、人間の営みがなければ、その存在意義すら失うものも少なくない。 しかし、人間の暮らしの近代化で、妖怪たちはどんどん拠り所を奪われているのだ。 次第に行き場を失い消滅を選ぶものや、山奥に引きこもるもの、人間に復讐を企てるものが増えてきた。 「鬼太郎は、そうした妖怪たちを救い、新しい時代の中で人間と新たな絆を築こうと模索しておるのじゃ。」 「うん。…立派だよね、親父さんも鬼太郎も。」 「まったくじゃ。あやつらは、人間を憎むことも、自らの存在を諦めることもせんかった。」 「うん。…うん。すごいよね…」 猫娘は頷きながら、まるで自分が誉められてでもいるように、嬉しそうに頬を赤らめている。 「だからわしは、この二人の下で、もう一度生きてみようと思うた。児啼きも、一反木綿もぬりかべも、みな同じじゃ。 あやつらの生き様に惚れて集まったんじゃよ。」 猫娘も、ひとりぼっちでいたときに鬼太郎に出会った。 初めは、人間の味方をするなんて、変なヤツだと思った。 でも、彼を知るに連れて、どんどん惹かれていった。 ぼーっとしているけれど、その思いは深く、情は厚く、いざという時には誰よりも頼りになる。 その鬼太郎の夢の真意を知った時に、自分と同じものを感じた。 「そうだよ。あたしも、鬼太郎や親父さんや、おばばたちと一緒にいたくて、ここで生きたいと思って来たんだよ。」 砂かけは、大きく頷いた。 「それなら、わしらと同じじゃ。ここで役に立たなければだの、足手まといだのなどと考えるのは、愚かなことじゃ。 おぬしは、おぬしのままでいい。同じ思いを持ってここに居る、それだけでいいんじゃよ。」 「お…おばば…。」 砂かけの大きな目が、優しい弧を描く。 「得手不得手は誰にでもある。おぬしは敏捷で五感も鋭い。それを生かして親父どのを守りきることじゃ。」 「ほんと? あたし失敗しちゃったのに…。また、親父さまを預かってもいいかな?」 「失敗などしておらんじゃろう。身を挺して親父どのを守ったではないか。」 「あ…そっか。…そうだよねぇ。あたし、なにを焦ってたんだろう。親父さんは怪我しなかった。ちゃんと親父さん、守れたよね!」 急に自信を取り戻し、いつもの明るい笑顔になった。 「だいたい鬼太郎は、失敗したからといってお役御免にするほど、器量の小さい男じゃなかろう。」 「そりゃぁそうだけど…。」 「まあ、確かにあやつは心配性じゃから、おぬしのその傷を見たら、しばらくは妖怪退治に同行させんかもしれんがな。」 「そんなの、やだぁ…。だから、このことは鬼太郎には黙ってて! ね、お願い!」 「わかったわかった。その代わり、今後も無茶はするんでないぞ。万一怪我をした時には、わしにだけは言うんだぞ。」 「はーい! さっすがおばば、頼りになるぅ。」 すっかりいつもの調子になった猫娘を見て、砂かけもつられて笑顔となる。 「それに、おぬしはよく勉強しておる。薬草の知識もずいぶんついてきたし、手先も器用じゃ。 ゆくゆくはその知識や技術が重宝されよう。戦闘に役立つのは、なにも攻撃力だけじゃないんじゃからな。」 母親のような温かい眼差しに、ねこ娘は力強く頷く。そして、手早く後片づけをすると、元気よく立ち上がった。 「ね、手当ても終ったし、早く鬼太郎の家に行こう! 山の幸、なくなっちゃうよ!」 今ごろほかの仲間たちは、鬼太郎の家に集まって、お土産にもらった木の実や茸や山鳩など山の幸を囲む宴の席を準備しているはずだった。 「やれやれ、まったく気の早い娘じゃわい。」 億劫そうに立ち上がると、砂かけは、早々と玄関に向かうねこ娘の後姿を黙って見ていたが、ややあって呟いた。 「ねこ娘…。おぬし、辛くはないのか?」 砂かけは、まだ幼いねこ娘が、戦いに明け暮れ、多くの妖怪を敵に回す生き方を選んだことを、痛々しくも思う。 自分や他の仲間たちは、長い時代を生き続け、悪いこともたくさん経験してきた。 だから今のような生活もそれほど苦にはならないし、戦い方も、逃げ方も、誤魔化し方も心得ている。 しかしねこ娘は、すべてを真正面から受け止め、誠実にそれに答えようとする。 そんなところは鬼太郎とよく似ているが、ねこ娘は鬼太郎ほどの妖力も、甘えられる肉親もないのだ。 いくら鬼太郎を慕っているとはいっても、その生活や命まで犠牲にすることはない。 振り向いたねこ娘の顔は、意外な質問の真意を確かめるように怪訝そうであったが、やがてにっこりと微笑むと、きっぱりと言い放った。 「おばば。あたし、すごく幸せよ。」 一点の曇りもない、心からの笑顔。 砂かけは得心した。やはり、ここがこの少女の居場所なのだと。 鬼太郎恋しさだけでここにいるわけではなく、共にいるべき魂を持った仲間なのだ。 血生臭い戦いや妖怪仲間との決裂、敵からの怨念といった辛苦も、少女の心を侵すことはない。 むしろ、その揺ぎないまっすぐな心は、戦いに疲れた仲間たちをも癒し、安らげる。 その純粋こそが、ねこ娘の存在理由だと言ったら、きっとまた、不満そうにむくれるのだろうが…。 「それは、よかったのう。」 にっこりと笑顔を返せば、ねこ娘は安心したように再び背を向け、ドアを開けた。 途端に家の中に入り込んできた涼やかな秋の風に、じゃれるように外に飛び出すと、 「おばば、早くー!」 と、傷を忘れたように大きく手を振って呼んだ。 そんなにはしゃいで、もし傷口が開いたら、またたっぷり薬草を塗りつけてやろうと、砂かけは袂に薬草の瓶を忍ばせて、ゆっくりと後を追っていった。 おしまい
なんて説明臭いSSでしょう(^^;;;。 |