MOTHER 南向きの大きな窓から午後の日差しが差し込み、瀟洒な洋館の一室にあるアトリエを明るく照らしていた。 白い壁には柔らかいタッチの風景画や静物画が整然と並んでいる。 一年ほど前まで、薄暗く禍禍しさに満ちた部屋だったとは思えないほど、こざっぱりとして居心地良い。 窓際に置かれた小さなテーブルには小花が飾られ、そこに一人の青年と向かい合って談笑する猫娘の姿があった。 アンティークの小花模様のティーカップに注がれた紅茶がすっかり冷めた頃、猫娘はようやくそれを口に運んだ。 「ん〜、おいしーい。それに、とってもいい香り…。」 口に残るほのかな余韻に、猫娘は顔をほころばせた。 「本当は、熱いうちに飲んだ方が香りが引き立つんですけど…。猫娘さんは猫舌ですもんね。」 青年ははにかんだように笑い、大きなティーポットから自分のカップに三杯目の紅茶を注いだ。 「自家製のローズ・ティーです。母のレシピなんですよ。これは、特別な日にだけ淹れるんです。」 そう言うと、目を伏せて懐かしむようにカップから漂う香りを楽しんだ。 「じゃあ、今日は特別な日なんですか?」 お茶請けのタルトを頬張りながら猫娘が聞くと、画家の青年はにっこり微笑んで答えた。 「絵が、いよいよ完成したんですよ。あなたに一番にお見せしようと思って。」 「わぁ、おめでとうございます! 一番に見せてもらえるなんて、役得だわ。」 心からの笑顔でお祝いを述べた。 「猫娘さんには快くモデルを引き受けていただいて、本当に感謝してるんです。あんなことがあった後なのに…。」 青年の顔がふっと翳る。 忘れもしない、ちょうど一年程前。あれは全くおぞましい事件だった。 ねずみ男がゲゲゲの森の妖怪たちに絵画モデルの話を持ち込んだのが、ことの始まりだった。 初めに砂かけがこのアトリエに招かれ、怨念の宿った絵に飲み込まれた。 そして、砂かけを心配して乗り込んできた鬼太郎たちにも怨念の化身が襲い掛かり、鬼太郎までもがその餌食となったが、最後には猫娘の歌う子守唄が青年の頑なな心を解かし、怨念の塊を消滅させることが出来たのだ。 その後、この青年画家は改心し、しばらくは人間のしがらみから離れて一からやり直したいと、旅に出ては風景画や静物画ばかりを描いていた。 それらの作品が今、このアトリエの壁を飾り、優しい空気を作り出している。 やがて身心が落ち着くと、今度こそ真剣に自分自身と向き合いたいと、改めて猫娘にモデルを依頼してきたのだ。 囚われていた母への歪んだ愛情と決別し、新しい一歩を踏み出すためには、覚醒させてくれた少女の存在を絵に表し、傍に置いておきたいのだという。 猫娘は砂かけや目玉・鬼太郎親子と相談した末、この依頼を引き受けることに決めた。 それが、半年ほど前のことだ。 以来、画家に呼ばれるたびに、猫娘はこの部屋を訪れた。 初めのうちは、念のための用心とやらで鬼太郎が同行し、隣にいたので恥ずかしくて落ち着かなかったし、時々、どういうわけかねずみ男が同席して猫娘にちょっかいを出すので、つい猫化して得意のアイアンクロー(?)をお見舞いしたし、そうでない時もおしゃべりばかりして、あまり良いモデルではなかったかもしれない。 それでも、青年はいつもにこやかに、紳士的に接してくれた。 もう大丈夫、この青年は二度と怨霊を生むことはないだろう、猫娘は心配する目玉親父や鬼太郎にそう話した。 「それはもう、終ったことだわ。今のあなたは、すごくきれいな目をしてる。だからあたし、安心してモデルを引き受けたんだもの。」 なんの衒いも、含みもない真っ直ぐな笑顔。 これが好きなのだと言わんばかりに、青年は優しい眼差しで、瞼に焼き付けるかのように猫娘を見つめていた。 恋というのとは違う。 そういう個人的な感情を超えた、女性に対する景仰とも敬慕とも言うようなものを、猫娘を通して感じるのだ。 母と同じように子守唄を歌ってくれたからだろうか、この幼い少女に母の面影を見る。 もう立派な大人である自分がこんな子供に母性を求めてしまうなんて、我ながら呆れるが、怨霊を母と崇めるよりはずっといい。 自嘲するように笑うと、青年はゆっくりと立ち上がった。 「それでは、いよいよ我が再出発の記念すべき作品を、ご披露いたしましょう。」 勿体振って西洋風のお辞儀をしながらそう言うと、壁際に置かれた大きなカンバスに向かった。 高さ2メートルほどもある縦長のカンバスには、目隠しのための布が掛けてある。 青年は、猫娘のほうを振り向いて再びお辞儀をし、その布についた飾り紐をゆっくりと引いた。 するすると布が滑り落ち、カンバスに描かれた絵が顔を出す。 「うわぁ…。」 猫娘は思わず感嘆の声を上げると、そのまま口を閉じるのも忘れて見入ってしまった。 圧倒されるほどの神々しさと温かく染み入るような慈愛に満ちたその絵は、まるで中世ヨーロッパの宗教画のよう。 まず目に入ったのは、左右に大きく描かれた二人の女性。 左側の女性は、天使のような真っ白な衣を身につけ、伏目がちの顔に優しげな笑みを浮かべ、お祈りをしているように両手を組んでいる。 右側の女性は、燃えるような緋色の衣を身に纏い、今にも飛び掛りそうに鋭く光る爪を剥き出し、金色に輝く目でまっすぐにこちらを睨んでいる。 どちらも神秘的な美しさを湛え、まるで相反する性格を持った二人の女神のようだ。 しかも、まったく違う表情をしているが、二人の顔は双子のようによく似ている。 そして、その二人の腰から下は、カンバスの下部中央に描かれた少女の背後に、吸い込まれるように消えている。 いや、その少女の背後から二人の女性が飛び出しているのかもしれない。 いずれにしても、おそらくは少女の内面にある二つの顔を象徴しているのだろう。 少女は壁にもたれかかって座り、夢見るように目を閉じて何かを歌っているのか、うっすらと唇が開かれている。 上にいる二人の女性に対してかなり小さく描かれているのに、不思議な存在感がある。 その小さな少女が、幼くあどけないながらも上の二人と同じ顔をしているのだ。 三人の女性が持つ同じ顔…それはもちろん、モデルを務めた猫娘の顔だった。 座っている少女の面(おもて)は猫娘そのままに、女神のような二人の面は猫娘の面影を持つ大人の女性の顔に。 言葉もなく絵を見つめる猫娘の横顔を満足そうに眺めていた画家は、しかし、あまりに長い沈黙に耐えかねて、ついに声を掛けた。 「あの…、猫娘さん? どうかしましたか?」 名を呼ばれて我に返った猫娘は、青年を振り返ると急に恥ずかしそうに頬を赤らめた。 「あ…、あたし、すっかり見惚れちゃって…。でも…、こんなにすばらしい絵のモデルがあたしなんかじゃ、もったいないみたいで…。」 その素直な言葉に、青年は表情を緩めて言う。 「あなたがモデルだからこそ、この絵が描けたんですよ。この絵の中の三人は、あなたからインスピレーションを受けて生まれたんですから。」 「あたしから…? でも、この女の子はともかく、上の女の人たちは女神様でしょう? こんなにきれいな女神様たちが、あたしから…。」 確かに自分に似ているが、それにしては美麗に過ぎる絵の中の女性達に、猫娘はひたすら恐縮する。 そんな猫娘の謙虚さを微笑ましく思いつつ、青年は最初の鑑賞者の感想に答えた。 「女神様…ねぇ。まあ、そうとも言えるかもしれないけど、自分としてはそんなつもりで描いたんじゃないんです。それに、あなたは十分に綺麗ですよ、猫娘さん。」 穏やかな笑みを浮かべ、猫娘に視線を移す。 「ずっと描きたかったものの答えを、あなたが教えてくれた。それで、ようやく描けたんですよ。」 「あたしが…?」 まるで覚えのないことに、困惑の表情を浮かべる。 対して青年は、自信に満ちた顔できっぱりと言い放った。 「この絵のタイトルは、『母』です。」 青年の発した思いもかけない言葉に、猫娘はますます当惑した。 「母って…、お母さん? あなたのお母さんって、あの時部屋にあった絵の、きれいな女の人でしょう? それじゃ、ますますあたしがモデルじゃダメじゃない。」 「いえ、これはぼくの母であり、世の中の母という存在そのものを表したものでもあるんです。」 「それでも、あたしじゃダメよ。だってあたし、お母さんじゃないもの。ただの…子供…。」 思わず自分で言った言葉に、自ら傷ついて口を塞いでしまう。 母になど、なれる日が来るのかどうかもわからぬ我が身を思い出したのだ。 「だけどあなたは、ぼくを叱ってくれた。子守唄を歌ってくれた。涙を流してくれた。母以外にぼくにそんな風に接してくれたのは、あなただけなんですよ。」 その言葉に、裕福な青年の人知れぬ孤独を知る。 猫娘はいつでも、相手に自分の心を真っ直ぐにぶつけ、好意を抱いた相手には我が身を忘れて無償の愛を注ぐ。 心を閉ざしていた青年は、そんな猫娘の純粋さに、女性が自分の子に向ける愛情、つまり母性と同質のものを見たのだろう。 「ぼくの母は、とても優しく美しい人でした。どこか儚げで、子供心に母を守らなければという気持ちがありました。」 遠い日々に思いをはせるように、青年は語り始めた。 「でもぼくは、母をわかっていなかった。表面しか見ていなかったんだ。母の絵を何枚も描いたけど、満足できなかった。不安で寂しくてまた描いて…、何枚描いても決して満たされることはなかった。」 猫娘は、あの事件のあった日、アトリエの隣の部屋で見たおびただしい数の絵を思い出した。 人形のように着飾った美しい女性の、同じ笑顔、同じポーズの絵を。 「当たり前ですよね。あの絵には、魂がなかった。ぼくは母の心を理解していなかったんです。それを教えてくれたのが、あなたなんですよ。」 猫娘はその言葉に驚いて、まっすぐに青年の目を見返した。 「母は病気になっても誰を恨むこともなく、弱音を吐くこともしなかった。母に冷たくした人たちを許し、最期まで同じ笑顔をぼくに見せてくれた。それがどれだけの勇気と強さを必要とするか、やっとわかったんです。母は優しいだけじゃなく、儚くもない、気丈で強かな女性だったんですよね。」 独白が止み、短い沈黙が訪れる。 それを破って、猫娘はなおも得心の行かぬ面持ちで呟いた。 「あなたの思いはわかったけど、だったら尚更、お母さんをモデルに描いた方がよかったんじゃない? やっと、本当のお母さんが描けるようになったのに…。」 「いえ、母の姿を描く必要はもうないんです。ぼくは母の心を描きたかった。そうしたら、あなたの顔が浮かんだんですよ。」 「そんな…、買いかぶりもいいとこだわ。あたしにはとても、お母さんの心なんて…。」 「ぼくが思うに、あなたは母性そのものですよ。」 しきりに恐縮する猫娘の言葉を遮ってそう言いきると、再び絵を仰いだ。 「この絵の三人は、純真と慈悲深さと強靭さを表しています。母とは、この三者を併せ持ったものだと、ぼくは思うんです。そしてあの日のあなたは、まさにこの絵のとおりだった。愛する者のために怖れることなく怨霊に立ち向かい、無垢な心で歌い、敵であるぼくのために涙を流した。」 聞いていて歯の浮くような言葉をためらいもなく口にする青年に少々面食らい、猫娘も視線を逸らすかのように絵を見つめた。 なるほど描かれている少女は、あの時壁にもたれ、蓄音機から流れていた曲を口ずさんでいた自分だった。 ようやく納得したような猫娘を見て、青年は自信を取り戻した。 「確かに、他の人にはこの絵と『母』は結びつかないかもしれない。でもぼくにとっては、やっと見つけた真の母の心なんだ。その証拠に、今ぼくはこんなにも満ち足りている。」 その穏やかな横顔に、猫娘も安心して笑顔を見せる。 「なるほどねぇ。そんな風に言われるとなんだかくすぐったいけど、確かに、あの時見たたくさんの肖像画よりも、この絵のほうがあなたのお母さんがどんな方だったのか、伝わるような気がするわ。」 「猫娘さんにわかっていただけたら、もうそれで十分です。」 二人で目を合わせ、にっこりと笑いあった。 「それにしても、こんな美人に描いてもらえてラッキーだわぁ。この赤い女の人は猫化したときのあたしでしょ。結構恐い顔だと思ってたけど、こうしてみると、なかなか美人じゃない。」 「あはは。実はそれが一番苦労したんです。迫力はそのままに、いかに美しく描くかってね。それで、こっそりねずみ男さんをお呼びして猫化を引き出すのに協力していただいたんですよ。普通にしていたら、なかなか猫化した表情は見られませんからね。」 「ああっ! なんで時々ねずみ男がいるのかと思ってたら、そういうことだったんだ…。」 人の好さそうな顔をして案外ちゃっかり者の青年の手際に、猫娘は怒るのも忘れてすっかり感心してしまった。 「とにかく、満足の行く絵が描けたのならよかったです。あたしも楽しかったし。もうここに来る必要がないと思うと、寂しいですけど。」 「そんな! モデルのお仕事はこれでおしまいですが、ぜひまた遊びに来てください。そうだ、今度は鬼太郎くんを連れてきてください。」 鬼太郎の名を聞くと、猫娘は素直に頬を紅潮させた。 「え…鬼太郎を?」 「そうです。彼、あなたに付き添って来ていた頃、どんな絵になるのかしきりに気にしていたんですから。」 「へー。そんな素振り、ちっともしてなかったけどなぁ。なんか、全然興味なさそうでしたけど…。」 「そんなことありませんよ。鬼太郎くんはポーカーフェイスだから。絵が完成したと知れば、きっと飛んで見に来たいと思うはずです。ぼくがぜひ来てほしいと言っていたと言って、誘っていらっしゃい。」 「そうかな…。じゃあ、さっそく声を掛けてみますね!」 「ええ、ぜひ。彼とならきっと、この絵の価値が分かり合えると思うんです。」 その後、空が茜色に染まるまでおしゃべりに花を咲かせた後、猫娘は青年画家の家を辞し、ゲゲゲの森へと帰っていった。 数日の後、猫娘と一緒にこの家を訪れた鬼太郎は、一目でこの絵に魅了され、以降、一人で足繁く通うこととなる。 鬼太郎がこの絵に募らせたものは、母への想いか、それとも、猫娘への慕情か、それは本人のみの知るところである。 おしまい
はい、見てのとおり、第四部「怪奇!人喰い肖像画」の後日談でございます(^^;;; |